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この戦争は、どう始まったか -ローマン・ウースティ(1)

12月18日 ウクライナ・プラウダ:(4,225 文字)

軍事統計によると、ウクライナ軍への軍事装備の最大の供給者はロシア連邦である
敵の 「レンドリース 」のコストは、数億ドル単位で計測される
そして、アメリカもイギリスも、その他の国も、これほど大量の各種戦闘車両や武器・弾薬を提供してはいない

戦場で損傷したもの(修復が不可能な場合、個々の部品や組立品は「ドナー提供機関」となる)、技術的に欠陥のあるもの、あるいは単にパニック状態の撤退時に放棄されたものなど、さまざまな理由でウクライナ軍に戦利品装備がもたらされている
そして、ロシアの最新戦闘車両が、文字通り、鼻先でウクライナ軍に盗まれたりもしている

ローマン・ウースティ

兵士ローマン・ウースティ

兵士ローマン・ウースティは、トランスカルパティア第128別働隊の修理・修復部隊に所属する戦闘員だ

日常生活では、電気技師という極めて平和的な職業に就いていた
しかし、この8年の間で2度目の脱サラをして、ロシアから国を守るために軍隊に入隊した

最初の「任期」は2014年から2015年にかけてだった
ローマンは、デバルツェフの地獄(注:ドンバスを巡る、ウクライナ軍と親露派・ロシア軍の戦闘。親露派・ロシア軍が勝利している。)を経験し、戦車隊長となり、敵の猛攻を受けたが奇跡的に生き残り、包囲網を突破し、「幸運」にも自陣に戻ることができた
デバルツェフでの戦闘のホットフェーズは2014年12月に始まった、とローマンは言う

デバルツェフの戦い(2015年)

「デバルツェフでは塹壕から頭を出すことができないほどの砲撃を受けました
定期的にロシアの車両が我々の陣地を迂回しようとしているとの報告を聞いたり、見たりもしました
しかし、破壊せよとの命令はなく、ただ観察せよとの命令しかありませんでした
そして不思議なことに、何人かの高官が視察に来た途端(私たちはその高官たちを「アディダスの悪魔」と呼んでいました)、敵の砲撃が止んだのです
そして、高官たちが去るや否や、新たな攻撃が始まったのです」

2015年1月、ロシア軍がウクライナ軍の防衛線を突破すると、デバルツェフの突端部の拠点で戦闘が始まった

「ロシア軍は、たくさんの機材とさまざまな武器を持っていました
砲撃が続き、車が壊れ、修理に走る日々が続きました」

ZIL

「ある時、砲撃を受け、ZIL(トラック)が被弾し、その後、突破口が開かれました
そこで、機関銃を持って、歩兵と一緒に応戦しました
一部の守備隊は何とか抵抗し、8〜10倍の数の敵を撃退しました
しかし、ところどころでロシア軍が防御を突破してきました
ある陣地には6両の戦車がやってきて、トラックで我々の仲間を殺戮し始めました
あのときは大変だった......」

ロビノベ村はピンの場所

やがてロシア軍はロビノベ村付近のバフムート~デバルツェフ道路(赤い破線部分)に到達し、これを封鎖した
旅団は他の部隊の付属部隊とともに包囲され、弾薬、燃料の供給、負傷者の避難ができなくなった
戦闘部隊は、死傷者の代わりに、その場に生き残っていた人員で補充しなければならなかった

「将校たちがやってきて、T-64BM戦車の経験のある戦車兵はいないかと聞いてきたんです」とローマンは振り返る

「2006年から2007年にかけて、精鋭とされる第1戦車旅団に所属していました
私はT-64BMブラット戦車の搭乗員長でした
ちなみに、T-64BMの性能はT-72より優れていると今でも思っています
だから、私は志願しました」

T-64BM

ローマンに加え、かつて戦車隊に所属していた5人が志願してきた
しかし、旅団本部に連れて行かれると、ある者は「溶接工をしていたので目が悪い」、ある者は「戦車から撃ったことがない」、ある者は「従軍していたのは昔なので全部忘れてしまった」と....

「彼らは軍曹で、私だけが兵士だったんです」

「その結果、6人中、私だけしか残りませんでした
理論的には断ることもできるのですが、断りたくありませんでした
すぐに、隊長が殺された戦車のところに連れて行かれました
指揮官室にはまだ指揮官の遺体が残っていて、私が彼を引き上げました」

「それで彼の死因に気付きました
その戦車では自動装填機構が働かず、ブリーチ(砲弾後部)のプロテクター(乗員保護装置)を取り外し、手動で砲弾を装填していたのです
それで、たまたま指揮官がブリーチの方に身を乗り出した時に、砲手が発砲し、その反動でブリーチが指揮官の頭を直撃していたのです
おそらく、ガンナーはターゲットに集中し過ぎたか、アドレナリンが出ていたため、その瞬間に撃ってはいけないことに気づかなかったのでしょう...」

ローマンは2時間で戦車の仕組みを覚えさせられ、戦場に送り出されたという
自動化にはまだ欠陥があり、砲弾の装填はブリーチ・プロテクター無しの手動で行わなければならなかった

「だから、怖かったです」とローマンは言う

「私は乗組員たちを知らなかったし、もし砲手が長く組んだ指揮官すら救えなかったとしたら、私などはどうしようもありません
でも、徐々に仲良くなっていきました」

「ロシアのT-72戦車によって包囲された我々の拠点を守りました
2週間粘りましたが、やられました
2月中旬で、デバルツェフの戦いはすでに最終段階に入っていました」

被弾

「私たち(T-64)は壊れた装備(トラック、BMP:歩兵戦闘車両、APC:装甲兵員輸送車両)の間に隠れながら、前方に進み、ロシア軍を撃ち、すぐに後ろに隠れていました
雪が降っていて、何も見えませんでした
そして、この作戦中に、約700m先に隠れていた敵のT-72の徹甲弾を戦車頭部に受けたのです
まるでハンマーでヘルメットを殴られたような衝撃を受けました
耳は聞こえないし、しびれるし、見えないし、耳だけがブルブルしている状態でした」

BMP:

APC:

「私たちは全員生き残りましたが、ただ被弾の衝撃を受けただけで済みました
そして、最初の数分は本能のままに行動していました
できる限り早く戦車から降りて、最も多く被弾した乗員を助け出さなければならなかったのです
助け出すや否や、再び戦車が被弾しました
今度は成形炸薬弾が装甲を貫通していました
弾薬が戦車の中で弾け始め、私たちは爆風で藪の中に放り込まれました
でも、私たちは生き残ることができました...」

「数日後、我々の旅団と付属部隊はデバルツェフ陣地から撤退を開始しました
ロシア軍によって幹線道路が寸断されたため、退却は3方向に分けて行われました
ちょうどひどく雪が降っていて、地面が凍っていたため、未舗装の道路や畑の中を退却することが可能でした」

ピンクが推定されるロシア軍の支配地域ローマンが退却した推定進路は青

公式には、2月18日の夜に一斉に旅団は退却したことになっているが、実際には、その後、いくつかの集団でそれぞれのタイミングで出発し、必死に逃げたとローマンは言う
「なんとか負傷者たちを車両に乗せ、アサルトライフルや防具、弾薬を多めに持って、私は徒歩で移動しました」

「実際に包囲されていましたが、畑や道路に出ることは可能でした
最初のうちは、2人の機銃手によって援護を受け、彼らが敵の砲火を引き受けてくれました
その間に、被弾した車両から、生き残った人を救出しました
その地点はすぐに迫撃砲の砲撃を受け、一部の機材は破壊され、生き残った者だけで先に進むことになりました」

「小さな車列(GAZ-66、ZIL、Uralのトラック数台)でデバルツェフ郊外の村に入ると、ロシア戦車が砲撃しながら向かってきました
どうやら待ち伏せされていて、ウクライナ軍の退却部隊を待ち構えていたようでした
何とか死を免れて突破できたのは車列の一部だけでした」

「傷を負った男が離れたところに倒れていて、名誉にかけて言いますが、私は彼と共に残ろうと決心していました
もし、死ぬことになっても、少なくとも、まともな人間として死ぬことができると思ったのです
私は彼をコンクリートのフェンスまで引っ張って行くと、『ジグリ』に乗った分離派の奴らが向かってきました
それで、そこで彼らを倒しました」

ジグリ ≪Жигулях≫:

「数分後、別の小さな車列がやってきて、私たちを拾ってくれました
他の人たちと一緒に『KrAZ ≪КрАЗ≫』の荷台に乗り込みました
死体が転がっていて、その上に座っているようなものです
どうしたらいいのか......座るところがありませんでした......」

「ミロニフスキーの手前で再び銃撃を受け、『KrAZ』の前輪がパンクしたが、プロの運転手が素晴らしく、奇跡的にウクライナ国家警備隊がいる道路に出ることができました
すぐに、誰が病院に、誰が自分の部隊に......と手配してくれました」

デバルツェフからの撤退は、当時の関係者から「計画的かつ組織的な撤退」と呼ばれ、ATOゾーン(対テロ作戦地域)におけるウクライナ軍の最も成功した作戦の1つとさえ言われた
しかし、これについて、ローマンは独自の見解を持っている

「まあ、どうだったかというと...…人によっては組織的に出て行って、人によっては精一杯逃げて助かったんです」

「当時は積もった雪がひどかったので、男たちは凍傷になり、野原をかき分けて進むのがやっとでした
マシンガンを引く力もなく、逃げるしかなかった
中には『ドネツク・ルハンシク人』に捕まり、拷問や虐待を受けた者もいました(ロシアのプロパガンダで洗脳状態になった若い娘もいた)
ひどいことをされています
そして、彼らは解放されました...」

「このいわゆる『計画的な組織的撤退』の後、これらの虐待を生き延び、街に帰ってきた人たちがいました
自殺する人もいれば、発狂した人もいました
拷問の後、普通に生活することは不可能でしたから
あまり話題にならなかったので、必要ないのでは…
あまり知らない方が良いかもしれない...」

デバルツェフの戦いの後、ローマンは15日間の短い休暇をもらい、その後も旅団で任務に就いた
小競り合いや砲撃があっただけで、積極的な敵対行為はなかったという

そして2015年秋、復員し、民間の仕事に戻った
そして、ヴィニツィア地方の民間企業で電気技師として働き始め、今年のロシア侵攻まで働いていた

(つづく)

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