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この戦争は、どう始まったか -露軍第64電動ライフル旅団とアンドレフカ村

8月15日独立系露メディア istories:(15,376 文字)
キーウ侵攻で地元住民を殺害した露兵を特定し、インタビューに成功
兵士たちは戦争犯罪を証言した

 2月下旬から4月上旬にかけて、キーウのアンドレフカ村は露軍の支配下におかれていた
露軍撤退後、村には破壊され略奪された数百の家屋と十数体の死体、そして地元住民が携帯電話で隠れて撮影した25枚の写真が残った
«Важных историй»の特派員エカテリーナ・フォミーナはキーウを訪れ、そこで行われた犯罪の詳細を調査し、犠牲者の親族に話を聞き、殺害や略奪に関与した露兵を特定した

アンドレフカ村はキーウ市から西に約20kmに位置する

人々から全てを奪った 略奪・強盗

 「バンデラ派の指導者、カーダーを探している」
それが、マカロフスキーのアンドレフカ村の老夫婦レオニード・ウドドフさんの家の近くで、装甲輸送車から降りてきた数人の露兵の最初の言葉だった
2月27日、露軍はアンドレフカの他にも、ドニエプル川右岸のいくつかのキーウの集落を占領した
そして彼らは4月までそこに留まった

 「村のみんなは、私の夫を冗談でバンデラ派と呼んでいました。」
とタチアナ・ウドッドさんは言う
「国粋主義者というわけではなく、ウクライナ西部出身なだけでしたが、それが定着してました」
それで、タチアナさんの76歳の夫、レオニード・アレクセーヴィチさんが、露兵の前に出たのです
「 みんな、そうだけど、『バンデラ派』と呼ばれてるのは私だけです」
とレオニードさんは、はぐらかすように話したという
「そうじゃない。私たちと同じ年じゃない」
と、露軍人は悔しそうに言ったそうだ
それで、兵士たちはウドッドさんのスマートフォンを取り上げ、初めての捜索を行った
(その後も何度か捜索された)
彼女にそれが返却できたのは、5月に入ってからだった
アンドレフカの住民が携帯電話を見つけ、人道的支援のの配給所に持ってきたのだ
その中に、銃と煙管を持ち、胸に勲章をつけた4人の露軍人の写真が25枚も入っていた
第64機動小銃旅団のダニエル・フロルキン、ドミトリー・ダニロフ、ルスラン・グロトフ、イワン・シェペレンコだ

 アンドレフカの住民の多くは、この写真に写っている兵士たちを覚えていた
露兵が撮影された場所が村のどこかも特定した
アナトリー・ダニレンコさんの家と庭だった
3月13日、ダニレンコさんと家族(アナトリー本人、妻、95歳の義父 )は「明日までにここから消えろ」 と言われ「数時間以内に」家を出なければならなくなったという
「荷造りをして午後4時に私たちは追い出された」とアナトリーさんは振り返る
「家を出る際に義父は露兵に言いました 『私は戦ったのに。貴方のママにお前を生ませるために。なのに、こんなことをするなんて...』と」
アナトニーの95歳の義父はウクライナ国防省の主情報局に勤務していた
(注:つまり、ソ連のために働いていた)
彼はこの露占領下を生き残り、5月29日に死去した
第64旅団のメンバー、ダニール・フロルキンが彼の勲章と一緒に写った画像が、盗まれていた携帯電話に残っている
ダニレンコさんによると、露軍が去った後、義父の勲章は自宅から無くなっていたという
勲章とともに、テレビ2台、電子レンジ、電気オーブン、キャットフードのストックも消えた
アナトリーが15年かけて建てたレンガ造りの2階建ての家の天井には、弾痕が残っている
キッチンの壁には赤いシミが残っている
占有者が桜のチンキを開けてこぼしたのだろうとダニレンコさんは推測する
納屋に行と、沼地色の露軍のトレーナー、防護服のズボン、黒いズボン、軍用ブーツ、汚れた靴下、履き古したカルバンクラインのズボンが散乱している
そのポケットに露軍のシェブロン(部隊や個人の目印となるワッペン)が残っており「Фролкин(フロイケン)」という名前があった
古くなった軍服を捨て、ダニレンコさんの服を着ていたのだ
(ルスラン・グロトフがアナトリーさんのジャンパーを着ている画像がある)
芝生には汚れた服のほか、たくさんの弾丸が落ちている
台所のテーブルには「俺たちは戦争は嫌だった 3月14日」と書かれたステッカーが貼られていたという

 住民たちは皆、何らかの形で略奪、窃盗、暴力に遭遇している
食品、家電製品、車、酒類などが持ち去られた
例えば、ウドドフさん一家は、電話だけでなく、避難するための車も奪われた
「『早く逃げればよかったのに 』 と、とても感じの悪い赤毛の人に言われました 『我々はゼレンスキーとナチスと戦うために来た』 と言うんです
『でも私たちはナチスじゃない』 と言うと 、嫌な顔をされた
それで終わりで、車取られました」 とウダッドさんは思い出す
ウダッドさんは夫の携帯電話の写真に写っている「赤毛」を確認しました
ダニール・フロイケンです
 ウダッドさんの車、古いグレーのLADAは、当時アンドレフカの街角でよく見かけられています
何人かの村人は、その後、殺されたり行方不明になった人たちを露兵がこの車で運ぶのを見たと言っています
露軍がアンドレフカを去った後、タチアナとレオニードは村はずれで車を見つけたが、それは粉々に破壊されていたという
今、そのボロボロの車が庭にある
タチアナ・トカチェンコさんは、ウダッドさんの車だけではなかったと証言する
兵士の一人が誰かの赤い原付バイクで村を「疾走」し、それに一度乗せてもらったこともあるという 盗んだジープで村中を走り回り、アパートの壁に衝突したこともあった
その結果、1人の露兵が足を痛め、翌日には足を引きずるようになった
ウドッドさんの携帯電話の画像で、タチアナは赤い原付バイクの運転手として、ドミトリー・ダニロフを指さした
第64機動小銃旅団の他の軍人の写真をトカチェンコに見せると、彼女はアレクサンドル・チリヤソフに見覚えがあるという
彼女によれば、チリヤソフがジープで村中を走り回っていたそうだ
アンドレフカ村の画像の中には、チリヤソフの姿はないが、第64旅団のリストには彼の名前がある
露兵はすぐに、食糧や輸送手段だけでなく、基本的な必需品とは程遠いものを現地の人々から奪い始めたという
露軍が来る前に逃げていた医師夫婦の家は、露軍の盛り場の中心になった
レオニードの目の前で、スクーター2台、自転車、チェーンソー、ノートパソコン、酒とチョコレートを没収してしまった

 シェフチェンコ通りの老夫婦イヴァンとヴァレンティーナは、露軍隊が彼らに変な要求をしてきたと言う
「十人くらいが来て。『お父さん、ビデオデッキはないかな?』と言うんです、私に何ができますか?十人もいるのに 私は妻に『渡してやれ』と言いました
兵士は『私はあなたにお金をあげるか、返すよ』と言いました
私は『いらない』と言いました
私はお金が何を意味するかを知っていました、お金と言って、額に弾丸を入れます」
この老夫婦は、病気の5歳の孫娘が一緒だったので、言い争いにならないようにしていたそうです
イワンとヴァレンティナに、64旅団の4人組の画像を見せました
銃を持ってポーズをとる長身の男がビデオデッキを奪った男でした
ドミトリー・ダニロフです アンドレフカの他の住民も、写真に写るドミトリーに見覚えがあり、彼らがドミトリーを「スナイパー」と呼んでいたことを思い出しました

 ナデシュダ・サブランさんは「露軍は、ここの人たちから根こそぎ奪っていった」と振り返る
ヴォフカさんの隣人は、輸入された、小さくてきれいな薪を切るためののこぎりを持っていた
露兵の一人がそれを持っているのを見かけたという
ヴォフカの隣人、ウラジーミル・ポズハーニコフは銃殺されている
ナデシュダ・サヴランの息子イゴールも銃殺されている
人口1万5千人程度だったこの村で、占領後に13人の銃殺された遺体が見つかっている
証言によると、裁判もなく、ときには捕虜になり、尋問されることもなく銃殺されたという

遺体となって発見されたアンドレフカ村の住人

殺害された人の、殆どの親族や知人から話を聞き、殺害された状況を確認することができた

「彼らがドルを振り回していたので撃ちました」殺人事件
 2月末、露軍隊が村に入ってきた頃、Vと書かれた1台の戦車がメリア通りのバス停裏のフェンスに横滑りしながら突っ込んだ
「露兵が戦車から出てきて、私の家を機関銃で撃ち始めたんです
そして、こう言ってました 『もし、戦車に触ったら、お前と家族全員、孫娘まで撃ち殺す』って」 と、ワシリーさんは言う
ワシリーさんの家はメリア通りにある

メリア通りには中央と南側の2か所のバス停がある
南側のバス停(左)と中央のバス停(右)

ワシリーさんは脅しに負けなかった
「戦車から3セットのカートリッジを取り出して隠しました (その分)命を救うことができました
あと、暗視装置を壊したり、動かなくしたり、配線を壊したり、バッテリーを壊したりしました 
そうすれば、(戦車が)機能しなくなる
いくつか、いいことができました」
盗んだカートリッジは庭のアヒル小屋の側溝の下に埋めたと言う
「誰もそこを見ようとは思わないんだ
あそこにいるアヒルのフンがあって、とても汚ないから」

 他にも戦車にいるところを目撃された人がいる
「近所の人が、誰かが戦車に上っているところを見た」 そうだ

イゴール・エルマコフの自宅と思われる場所

おそらく、メリア通りに住んでいたイゴール・エルマコフが、同様に妨害工作を試みたのではないかと考えられている
イゴールが本当に戦車に近づいたのかは確認できない
現在、イゴールの家は土台といくつかの老朽化した壁だけが残っている
白鳥の描かれた青い門はボロボロだ
1羽の白鳥は撃ち抜かれている
イゴールの遺体は、ここから歩いて1分のところで見つかった
3月2日、露兵はこの青い門の前で発砲を開始し、戦車が突入してきた
「彼らはここの窓を破り、ドアに向かって絶え間なく発砲し始めました」
と未亡人となったタチアナは回想する
「窓から二人の露兵が入ってきて、別の二人がドアから入ってきました
そして、イゴールに『あなたは司令官から指名手配されている』と言いました
私が『私も行っていいですか?』と言うと
『駄目だ、座ってろ』と言われました
それが、彼を見た最後になりました」

 3月2日の夕方まで、タチアナはドアにカギを掛けられ、家から出られなかった
やっと、窓から外に出て、兵士の前にひざまずいて嘆願した
「お願いだから教えてください、彼は生きていますか?」
「話しているだけだ、彼は生きている。戻ってくる」

 3月4日、ある軍人がタチアナのところにやって来て
「行って見てください。あなたの夫は変圧器の近くにいませんか?」と言ったという
タチアナと彼女の妹が言われた場所に行くと、後ろ手に縛られ、射殺されているイゴールを発見した
「顔は青く腫れていました、顔を骨折していました
そして、後頭部を撃たれていました」
タチアナは夫を家の外の庭に埋葬した
露軍が去った後、イゴールは掘り起こされ、墓地に埋葬された
タチアナは、イゴールが露軍の装備品の画像を撮影しようとして殺されることになったのかもしれないと考えている

 3月13日には、砲弾の直撃で、家もなくなってしまった
遺品だけでなく、24年間幸せに暮らしてきた夫婦の写真もほとんど燃やされた
露軍はタチアナさんの携帯電話も奪った 昔の画像は、娘の携帯電話の中にだけ残っている
画像では、イゴールさんとタチアナさんが幸せそうにお孫さんを抱いている

イゴール・エルマコフさん

 タチアナさんが夫の遺体を発見した日、メリア通りと交差するペレモヒ通りで、イシェンコさんの家に露兵がやってきた

 午前10時30分、アントン・イシェンコさん(23)が連れ去られ行方不明になった
2時間拘束されたらしい
「翌日どころか、夜までも…(生きられなかったようだ)」 と彼の祖父、ペトロが呻く
墓に刻まれたアントンの命日は3月6日となっている
なぜ、この若者を連れ去り、殺したのか動機は不明である
彼の体にはイゴールと同様、銃創だけでなく暴力の跡が残っていた

 イゴールが殺害され、アントンが失踪してから1週間後の3月12日、ヴァディム・ハニュクとヴィタリー・キブケヴィチが射殺された
ヴィタリーの隣人、イウリー・ミハイロビッチが、二人が処刑場に導かれる様子を窓から目撃している
「停まった車から、軍人が三人降りてきました 彼らがドアをノックすると、ヴィタリーが迎え入れました
しばらくして、2人が出てきました
ヴィタリーと露兵でした
二人は納屋に行きました
何度か銃声が聞こえました
少しの間のあと、納屋からは露兵だけが出てきました
他の二人はいろいろ大きな荷物を運び出し、トランクに入れていました
次は、ヴァディムの番でした
15分くらい後、『バン!』と音がしました
それだけでした」

彼らはヴィタリーの手を縛り、彼の足を撃ち、次に肩を撃ち、次に頭を撃った
「そこで 5 つの薬きょうが見つかりました」と、ヴィタリーの未亡人であるエレナ・キブケビッチは言います
彼の苦痛はどれほどのものだっただろうか

 3月5日、エレナとヴィタリーの娘と赤ん坊が村から脱出し、3月7日にはエレナ一人が脱出していた
エレナは露軍の検問所でも携帯電話を隠しとおすことができ、家に残っていたヴィタリーと連絡を取り合うことができた
村にはほとんど電波が届かず、ヴィタリーは妻と話すために隣家の屋根裏によじ登った
夫妻が最後に話したのは、ヴィタリーが撃たれる2時間前だった
エレナさんによると、夫は一度も露兵に尋問されたり、身体検査を受けたなどと言ったことはないという
だから、彼女は、誰かが夫を密告したのだと確信している
わざわざ彼を標的にして家を訪ね、裁判もせずに庭先で処刑したからだ
ヴィタリーは2月24日に地域防衛隊へ志願したことを密告されたとエレナは思っている
最初の2、3日は土嚢を積み、村の道路を封鎖していた
当時、地元の地域防衛隊支部には武器がなかった
ヴィタリーの直後に殺されたヴァディムも、親族や友人によれば「普通の労働者」で、軍隊とは無縁だったそうだ
妻、5歳の子供、義母は、占領期間中、何とか村から脱出した
彼だけが農場に残っていた
「頭の半分がありませんでした 足も撃ち抜かれていました 棺桶に入れて埋葬しました」 と、ヴァディムの義母が証言した
遺体は撃たれた場所で、そのまま放置されていた
ヴィタリーは裏庭に、ヴァディムは地下室で

ヴァディムさんが発見された地下室

 ナタリア・シモロズさんは、ヴィタリーさんの親族とともに、埋葬を許可してくれるよう露兵に頼んだ
兵士の一人が短く答えた
「一緒に埋葬されたいか 」
ナタリアは、レオニード・ウドッドの携帯電話の写真に写っている男が、21歳のドミトリー・ダニロフであること確認してくれた

ナタリア・シモロズさん

 2日後、彼女たちは近所の人と一緒に、ヴィタリーとヴァディムを家の裏庭に埋葬することができた
露軍が去った後、彼らは掘り起こされ、改めて埋葬された
アレナ・キブケビッチは、裏庭の、最初に夫の墓があった場所にトゥージャの木を植えた

 アンドレフカでは噂が流れていた
露軍は防衛隊に参加した男性の家に来ているという噂だ
リストはラダ(村役場)にあった
しかし、地域防衛隊のヴィタリー・チェルカサウさんは、露側はリストを入手しておらず、ヴィタリーは村長アナトリー・キブケビッチの親族だから殺された可能性があると語る
「露軍が村長を指名手配した
それでヴィタリーは目を付けられたのです
その日、30分の間に三人が殺されています」とチェルカサウさんは言う

村長アナトリー・キブケビッチさん

 村長アナトリーによると、三人目の犠牲者は47歳のルスラン・ヤレムチュクさんだった

ルスラン・ヤレムチュクさん

彼は、ヴァディムとヴィタリーの家から数軒離れたスロボダ通りに住んでいた
ルスランと妻オクサナの間には4人の子供がいる
ルスランは建築家だが、近年は写真やビデオ撮影が好きだった
「父は何でも撮影していました そのせいで、撃たれたと推測していました」 と娘のヤロスラバさんは言う 家族は、彼が露軍の動きを撮影し、[情報] を送信していると考えている

ヤロスバヤさんへの電話インタビュー

被占領時、ルスランさんと息子のミハイルさんが家に残っていた
3月11日、ミハイルたちは村から子供たちを避難させた
ミハイルは父親も避難させるつもりだったが、間に合わなかった
露の検問所で拘束され、10日間監禁されたからだ
ミハイルは今、アンドレフカに戻っている 

ルスランさんの隣人は、露軍が 3 月 12 日にルスランさんの家に来ていたことを覚えている
ルスランさんの遺体は、自宅近くで近所の人に発見され、そのまま庭に埋められた
当時は砲撃が続いていて、遺体を移動させることはできなかった
「遺体の横には携帯電話が散乱していた」
と娘のヤロスラヴァさんは言う
「父は古い携帯電話を捨てずに、家の中のロッカーにしまっていました おそらく、ロシア人が探し回って見つけて、壊してしまったのでしょう」

三人の住民は、3月12日以降、数人の露兵がスロボダで三人殺したと自慢していたことを覚えている
タチアナ・トカチェンコさんは、ある兵士が仲間に言ったセリフを覚えている
「隣の通りで三人殺した、いい商売だ」
ミコラとテチヤナという老夫婦も、同じような自慢話を覚えている
「あいつらが来て、村の仲間を三人殺したと話し始めたんだ
『彼らがドルを振り回していたので撃ちました』と」
老人は、最も自慢していた軍人は携帯電話の写真から「赤毛」のダニール・フロキンだったとすぐに気づいた

拷問と殺人は終わらなかった
 3月19日、村に駐留していた露軍の一角に砲弾が着弾した
「露軍は目立つ人を探して走り回り始めたんです」 とナデシュダ・サブラノフさんは振り返る
目当ての一人はナディシュダさんの45歳の息子、イゴールで、1週間前に撃たれたヴィタリー・キブケビッチと同級生だった
イゴールは最近、妻と別居し、母親と一緒に暮らしていた
イゴールは、若い頃に軍隊に所属し、その後国家警備隊、国家保安局に所属していた
しかし、その後、仕事に幻滅し、車の修理をする仕事をしていた
イゴールは彼の軍歴のためにガンマンだと思われたのだろう
露軍は19日午後4時、サブラノフさんの家に押し入った

イゴール・サブラノフさん

一人は彼を連行し、もう一人は家を捜索していた
固定電話を見つけて、床に叩きつけ、踏みつけていた
彼女には、息子が連行された理由も家に帰るかどうかも知らされなかった
3月31日、郊外にある元農場の納屋の中で彼は発見された
彼の側には、ウラジミール・ポジャルニコフの遺体もあった

イゴールは脚を縛られ、手を頭の後ろに回し、上半身を上着で覆われ、寝ているように見えた
胸を2箇所撃たれていた
息子の羊の毛皮のコートを手にするナデシュダさん
彼女は占領解除後も、ウクライナ軍に「死体にはブービートラップが仕掛けられている可能性があります」と言われ、近づけなかった
「とにかく(遺体の近くまで)毎日通いました
戦車や機材のせいで、ホコリがついていて、(遺体が)灰色になっていました
(遺体が回収された後)家から水を汲んできて(遺体を)洗いました
誰も洗ってくれないと思ったから」

ナデシュダのキッチンは質素な内装で、壁には古いソビエトの食器棚が置かれている
その中には、他の料理に加えて、「最愛の母」と書かれたマグカップがあった
蘭の花が飾られた壁紙のサイドボードの上には、ヒマワリを背景にしたイゴールの肖像画が飾られていた

 村から避難していた住民の中には、帰還後に家が略奪されただけでなく、そこで、誰かが殺されたという事に気づいた人たちもいる
そんな事例を三つ教えてもらった

 タチアナ・アドルフォヴナ宅の浴室では、洗濯機に銃痕があり、壁にも血の跡があった
鑑識の結果、誰かがそこで撃たれ、血まみれの死体が家の中で引きずられていたことが分かっている タチアナ・トカチェンコの家でも、彼女と息子が避難した後、同じようなことが起きている
バスルームに血だまりができていたそうだ
地元の人たちの間では、「ラシストが撃たれた」という噂が流れていた
ナターリア・シモロズさんの家では、住民のイワン・リビツキーさんの遺体が発見されている
誰が殺したのか、なぜ殺されたのか、はっきりしたことは分かっていない
撤退する前に露軍が焼き払われた建物もある
地域防衛隊のヴィタリー・チェルカサウは、持ち帰れない弾薬がある家屋が焼かれたと主張している

ウクライナメディアСлiдство. Iнфо によれば、2月末に露軍はこの村に弾薬庫を設置している
地域防衛隊のヴィタリー・チェルカサウは、焼けた家屋には露兵や地元の人たちの死体が埋まっているかもしれないと考えている
アンドレフカには、死者13人以外にも、40人以上の行方不明者がいるのだ

「住民たちが必死で避難していたとき、 (誰もが)街中に死体が散乱しているのを見ているが、その死体はどこかに消えてしまった」 とヴィタリーさんは言う
「アンドレフカの橋の上に、男性2人と女性1人の死者が横たわっていた それが誰なのか、誰も知らない どうなったのかも誰も知らない」
「露軍は、戦車を運ぶトラックに直接、死んだ兵士を乗せていた
砲撃の後、(遺体を)トラックに放り込んで、どこかに運んでいた
そして、私たちも 多くの人が殺され、長い間、道路沿いに放置された
誰も触ることを許されなかった そして、ある日突然死体が無くなった
それっきりなのです」

「任意に、強制的に、利用されました」 露の請負業者が占領中に行ったこと

 6 月、ウクライナ検事総長室は、第64電動ライフル旅団のダニール・フロルキンが戦争の法律と慣習に違反した疑いがあると発表した
特に、アンドレフカで民間人を殺害し、車を盗み、第二次世界大戦の退役軍人からソビエトとウクライナの勲章を盗んだりした罪で有罪になる可能性があると述べた
7 月、地元住民ワシリーが ウドッド の電話の画像から、露軍の男を特定した
ワシリーは、イゴールを撃ったのはフロルキンであると確信している
ウクライナメディアСлiдство.Iнфо は、ウドッドの画像で特定された全員の連絡先を特定している

 そのうち、ダニエル・フロルキンとドミトリー・ダニロフとのインタビューに成功した
まず、アナトリー・ダニレンコの家の写真を1枚送り、ダニロフに電話をした
「そんな画像、どこで手に入れたんですか? 私も持っていないのに」 とダニロフは言う

中央がダニロフ

また、特定されたことにも驚いていた
画像では、露軍の軍服ではなく「自分の軍服」を着ており、眼鏡をかけ、頭巾をかぶるなど、身元が特定されないようにしていたからだ
しかし、眼鏡の下に見える眉間の傷跡から身元が判明した

イワンさんは、ビデオデッキを奪った軍人をダニロフだと言っていたが、ダニロフは、イワンさんを覚えておらず、ビデオデッキも奪わなかったと言う
しかし、タチアナ・トカチェンコが乗っていた赤い原付バイクで、時速90キロで走ったことには笑顔で覚えていると答えた
ダニロフは、当初、2022年1月に戦友たちとともに「演習のため」ベラルーシに派遣されたという
演習中に、多くの人がウクライナに派遣されるかもしれないと「推測し始めた」そうだ
そして2月、「特別作戦」が告げられた
「3日間、威嚇しに行く」と言われたという
「特別作戦が始まったら、ルハンスクとドネツクは人民共和国として承認され、露連邦に編入される予定だと言われた
それが、今も続いている」
また、3日間の行軍のための食糧と軍服を与えられたという
「洗濯をする機会もなかったので、服を着替えるために、多少なりとも軍用に適した服を探さなければいけなくなった」
兵士は原則的に、地域住民の私物から「何か適当なもの」を探すしかなかった
ダニロフの理解では「特別作戦」の主目的は「ウクライナをナチスから解放すること」である
「我々の理解では、ナチスは、露をいつも直接的に脅かす存在で、(露は)平和を実現したかった人たち」だという
そしてダニロフの理解では、アンドレフカ村では、おおむね適切な地元の人たちとの交流ができたそうだ
アンドレフカ村の占領中、ダニロフたちは「(露の)位置情報を通報する人を探し続ける」ことに従事した
その人たちはどうなったのかと尋ねると、ダニロフはこう答えた
「私の知る限り、彼らは捕虜になり、その後最高機関に引き渡された
それだけだ
いつものように取り調べられ、その後、捕虜交換でウクライナに引き渡された」
ダニロフは、自分はアンドレフカの民間人殺害に関与しておらず、そこで撃たれた民間人についても何も知らないと主張する
ダニロフの仲間のほとんどは、この「出張」に不満を持っていたという
「具体的な指示が無かった
朝飯だけはいつも食べさせてくれた」 とダニロフは言う
「出発するとき目的地を教えられる
その地点に到達する
新しい目的地を言われる
そして、また新しい目的地
それが一番きつかった」
ダニロフは、Гром(グロム)に入るという夢のために、兵役契約にサインしたという
すでにウクライナから帰国しており、辞表を書いたと言っている
戦争に戻りたくないのは、「あそこには何もない」からだという

Гром(グロム):МВД России(露内務省)薬物管理局の特殊部隊

ダニロフは、ウクライナ侵攻について
「関与することは一方では正しく、他方では正しくない」と振り返る
「 喜しくはないが、否定的な態度もとれない
熱狂的な人などほとんどいない
テレビ、新聞、あらゆるニュースの99%が嘘だ
本当のことを言う人はほとんどいない
ウクライナから戻った人だけが知っている
ほとんどの人が新聞とテレビを見ているため、真実が分かる人は少ない
そして、第二のマジョリティは、悪夢は忘れたいと考えている」
最後に、ダニロフは「記念に」彼と仲間が移った画像を送ってほしいと頼んだ

 次に、ダニエル・フロルキンに電話した

ダニエル・フロルキン

彼は、1月11日にはベラルーシでの「演習」に参加していたという
彼の言葉から判断すると、フロルキンは「特別作戦」以前には、特別な訓練は受けていなかった
戦争前夜の国境地域での滞在について、フロルキンは次のように説明する
「国境に到着したときは、最初は基地内だけで生活していました
そのうち、一帯に散らばりました
私の小隊は大隊に食料を供給するのが任務でした
食事を作り、片付けをして、寝る 昼食を作り、片付け、寝る」
フロキンは、2月23日、演習終了祝いのディナーの後の訓示で出征することを知ったという
「最初は朝4 時に出発する予定だったのが、朝3時に変更されました
さらに、夜中の1時に『車を出せ』と言われました」
ウクライナ侵攻後、多くの同僚が辞めようとしたが、誰も辞めれなかったという
旅団長(アザトベック・オムルベコフ)は、命令を拒否した連中を怒鳴りつけ、屈辱的な扱いをした
「戦場に『行きたくない』なら撃ち殺す」と師団長は言った
「実は、特殊作戦は任意です そして、結局のところ、『自発的になる』ことを強いられたのです
断ると刑事責任を問われると言われ、そのまま運転を続けろ」と言われました
今は(露領に)戻っているが、明日から三度目の派遣に出発するという
(フロルキンとのこの会話は7月20日に録音された)
「三ヶ月を超えない範囲の派遣です
三ヵ月後、再度、希望者の署名を集められます
法律上、私たちをここに閉じ込める権利はないはずですが、彼らは法律など気にもしていません」
フロルキンによると、アンドレフカで一緒に写真を撮っていた同僚のルスラン・グロトフが、キーウから戻った後、指揮官に辞職願をしたという
指揮官は、彼と64旅団の2人の軍人に 「分かった、明日、飛行機で露の避難場所に送る」 そう言って、ウラル(輸送車)に乗せ、ウクライナに送り返した

ウラルはロシアのトラック・ブランド

その後、グロトフは迫撃砲の攻撃で腕を負傷し退役することになった
フラフキンによると、アンドレフカでは、破損した機材を退避させる必要があった
「『ウラルがパンクしているから、退避させてこい』と言われたんだ
ウラルを80キロ先まで引っ張っていくと、トレーラーが拾ってくれたり、
もっとましな車があったりするんです」
車両だけでなく、負傷したり、死んだ隊員を避難させなければならないこともあった
例えば、砲撃で、胴体と頭の半分だけの遺体を車で運んだことがあるという
フロフキンは、戦死したもう一人の戦友を覚えている
サランスク近郊の村から来たアレクサンダー・チリヤソフだ
チリヤソフは盗んだジープで村中を走り回っていた
 タチアナ・トカチェンコの家で射殺された(注:バスルームにあった血だまりの話だと思われる)のはチリヤソフで、彼は他の軍将校と一緒に酒を飲んでいて殺されたという
誰が何のためにチリヤソフを殺したのかは分かっていない
フロルキンによれば、遺体は露に送られたとのことだが、公式な資料では、彼の死に関する記載は見つけられなかった
略奪や窃盗について尋ねると、フロルキンは、ワインやビールの瓶、バーベキュー、食べ物などの「物」だけを持ち出したと答えた

また、アナトリー・ダニレンコさんの家から勲章は持ち出していないという
「私たちはメダルを付けて写真を撮っただけで、メダルは元に戻した」と言う
フロルキンは、アンドレフカで略奪したことは否定しなかった
特に、兵站担当の副司令官ヴャチェスラフ・クロブコフ大佐が得意としていたそうだ

「略奪した商業冷蔵庫を売っていた
そして、洋服のお店でトレーナーやら何やら、目についたものは全て持ち出し、トラックに乗せた
ベラルーシに着いた時にはトラック2台分になっていた」

ヴャチェスラフ・クロブコフ大佐

しかし、この時の通話では、フロルキンは、ドミトリー・ダニロフと同じように、自分はアンドレフカの住民を殺したことを否定していた

「すべての罪を認める」 アンドレフカで本当にあったこと

 最初の会話から数時間後、フロフキンはメッセンジャーで電話するよう提案し、ビデオをオンにした
フロルキンは、ベルゴロド州の臨時配備部隊に所属している
彼の顎には榴散弾の生々しい傷跡があり、タバコを吸いながら、録画してくれと言った

「私、51460部隊の兵士、警備隊員ダニエル・フロキンは アンドレフカで犯した全ての罪を告白する
民間人を撃ち、民間人から盗み、携帯を奪った
そして我々の司令部が我々の兵士、最前線で戦う全ての歩兵を気にしていないという事実を伝える
そして、指揮官アザトベク・アザンベコビッチ・オムルベコフ親衛隊大佐、ドミトレンコ親衛隊中佐、兵站・補給担当副司令官クロブコフ大佐、情報部部長ロマネンコ中佐を処罰する措置を取るべきだと言いたい」

アザトベク・アザンベコビッチ・オムルベコフ親衛隊大佐
Сергей Дмитренко セルゲイ・ドミトレンコ中佐
Романенко Денис Сергеевич ロマネンコ・デニス・セルゲイヴィッチ中佐

「副旅団長のプロクラット中佐が射殺を命じました」

Андрей Прокурат 副旅団長プロクラット中佐

旅団司令官の何が罰せられるべきなのか、と聞くと、 フロキンは
「普通の兵士を人間とは思っていない」と答える
彼によれば、アザトベック・オムルベコフ大佐は、司令部に、架空の成功、虚偽の報告をしていた
司令官は、アンドレフカ占領期間中、ずっと、拠点にした学校の地下にいたという

攻撃に出ない方がいいと言った兵士を、オムルベコフ大佐はひたすら罵倒し、殴り続けたという
顔面を銃の尻で殴ったのだ
額に銃を突きつけ、「お前を撃ってやる。何も残らないぞ。」と言ったという

私はフロルキンに「民間人を撃った」と告白した意味を尋ねた
三月(正確な日付は思い出せない)、司令官からフロルキンと他、数人の下士官兵は、アンドレフカの三人の家の捜索に同行するよう、命令されたという 「三軒周り、家を見せてもらった」
「家の中にその人たちの写真はなかった
つまり、彼らの本当の家ではなかったのです
三人目は、ほとんど廃墟の中に住んでいた
そして、フリヴニャかドルかの札束を持っていた
オレクサンドル・プロクラト中佐がその金を奪い、彼の身分証と電話を『彼らは用済みだ』と言いながら渡してきました」
フロルキンの記憶から判断して、3月12日に起こったヴァディム・ハニュク、ヴィタリー・キブケヴィチ、ルスラン・ヤレムチュクの三人の殺人事件である
おそらく、フロルキンが、ルスラン・ヤレムチュクさんを撃ったのだ
フロルキンは誰が誰を撃ったか判別できていない
しかし、ショックでいろいろと忘れてしまっていることを本人が認めている
その後、フロルキンは殺害されたルスランさんの写真を一緒に捜索していた仲間の兵士に見せ、彼自身がルスランを撃ったことを確認した

フロルキンは、自分が殺した男(ルスラン・ヤレムチュクさん)が通報した位置情報で
「18人が『300(負傷者)』になった
1人は重傷で、破片で玉を潰された」
と信じている
「復讐なんてバカバカしいが、復讐のつもりだったし 自分がどうなるかもわかっていた
特殊作戦の7ヶ月で殺したのはその1人だけだ 86人を救い1人殺した」
「撃つ前に何か話しましたか?」
「試しました 『私は一般市民で、ここに住んでいるんだ』と言っていた
しかし、この家の犬が彼に向かって吠えていた
それで 『本当のことを言え、このアマ、今すぐ撃つぞ』と脅すと 『一昨日、キエフから来た。輸送車両の位置情報を送るように言われた』と白状した
それで、家から連れ出した
所持品からは、警官が使う散弾銃の薬莢も見つけていた
『どうぞ』と言って彼を歩かせた
前を向いて歩いている彼に『ひざまずけ』と声をかけた
そして、額に弾丸を撃ち込んだ (注:フロスキンは言い間違いをした、「後頭部に」のはずだ) 震えが止まらなかった
一人殺してしまったが、一人でも多くの人を救いたかっただけだ」

左の画像が現場となったヤレムチュク家の中庭 女性は奥さんのオクサナさん

真実を話すことにした理由をフロフキンに聞きました
すると、フロルキンは、何ヶ月もの出張の後、再度、ヘルソンの最前線に送り込まれようとしている「少年たち」のためにそうすることにしたと言う
「子供たちが助かるだろう 私の犠牲で、軍がマシになることを期待します
何百人もの人生を台無しにするよりも、私一人の人生が台無しになる方が良い
(第64電動ライフル旅団の)仲間たち、みんな知ってるんです
大隊で生き残った50人は、みんないい人たちだ、彼らの人生を壊したくはない
彼らは『徴兵』のときから一緒にいた(注:ロシア軍は、全員最低3か月の徴兵期間を経てからでないと契約兵になれないことになっている)
今またヘルソンに送られようとしている

そんなことをするべきではない
物理的に余裕がない
我が旅団は壊滅状態です」
この言葉は、SBUが公表した、第64電動ライフル旅団将校の傍受された通話でも確認できる
指揮官が誰を旅団に配属させればいいのか、誰が再び「こんなアホなこと」に手を出すのか、分からないと話している

フロキンは、自分が何のために、誰と戦っているのか、全く理解できなかったと告白する
「我々の部隊は『ここで私たちは命を救っている、とてもカッコいいことだ』と言われていたが、誰と戦っているのか、それすらも分からない
他の情報は何も教えられず、民間人の損失についても何も教えられなかった
ウクライナ兵を殺している、『砲兵隊』は良い仕事をしている、と言われた
しかし、民間人をどれくらい殺したか、彼ら(司令官)自身にもわからないのだろう」

7月末、フロルキンはベルゴロド州からハバロフスク州に移り、そこで退職を申し込んだという
二年前、故郷で警察官をやりたいと思い、契約兵になったこの兵士がこれからどうなるのかは全く分からない
「このような情報ばかりだと、刑務所に入れられるかもしれないことは理解している
ウクライナでやったことでさえも(話してしまっている)
しかし、その情報(露軍に関する情報)について、私はただ、すべてを告白し、この国で何が起こっているのかを説明したいだけなのです
戦争なんてない方がいいと思うんです」

追記: フロキンのインタビュー後、未亡人のオクサナに電話をした
実は、夫を失ったことは、彼女の家族で起こった最初の悲劇ではない
2017年、彼女とルスランの16歳の娘セラフィマが行方不明になった
数週間後、少女は23歳のボーイフレンドに殺害されたことが判明した
2019年、オクサナとルスランの間に息子が生まれている

オクサナはルスランの身元確認に立ち会い、夫の死因が頭を貫通する傷であることを確認した
もし機会があれば、夫を殺した犯人に何か言いたいでしょうか、と彼女に聞きました
「なぜ? 殺したのは人ではありません
彼らは人ではない、ただそれだけです
動物であっても可哀そうなくらいです
だから、話す相手ではないし、話すこともありません」

ウクライナ戦争に参加した露軍について、何か知っていてる人は教えてほしい
あるいはあなた自身が「特殊作戦」に参加していたという方は、letter@istories.media またはテレグラムのボット @mail_to_istories_bot でご連絡ください
(終わり)

11月17日、第64分電動ライフル旅団の一員がスペインに亡命したことが報じられた

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