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この戦争は、どう始まったか‐ロスグヴァルディア

5月20日 米国メディア The Debrief:(13,361 文字)(抜粋・要約・大改編)

ティム・マクミラン

哀れなロシアの警官たちがキーウを襲撃しようとしていた

2月25日の朝、ロシア警官の種々のメンバーたちは、硫黄の刺激臭と金属のような甘い死臭で窒息しそうになっているのに気がついた
戦争に出た人たちの最初のトラウマになるのは、光景や音ではなく、匂いだという
人間同士の争いの毒々しい匂いによって、戦争の現実がはっきりと見えてくるのだ
その時、彼らはロシア兵として世界で最も危険な場所、ウクライナの首都キーウにいた

捕虜のインタビュー、ウクライナの様々な情報源との会話、家族、オープンソースの情報と合理的な推測があれば、ロシアがウクライナに侵攻を続ける中で、最も奇妙でほとんど見過ごされている出来事の1つでも、より包括的に理解することができる

かつて世界第2位の軍事力を誇ったロシア軍が、開始からわずか1ヶ月で屈辱的な敗北を喫することになったキーウの戦いの経緯も、ユーモラスなまでに描くことができる

これは、ウクライナの首都を単独で襲撃しようとしたロシアの警官たちの、信じがたいほど悲劇的な実話である

ケメロヴォのロスグヴァルディア

この物語は、ウクライナから2,000マイル離れたシベリア南西部の行政州ケメロヴォで、侵攻の1カ月以上前に始まる
ケメロヴォ州は、数千年の歴史を持つロシア人居住地の集合体であり、ロシアで最も都市化が進んだ地域の一つである
緑豊かで山深いトム川流域にある、9つの主要都市のいずれかに人口の約70%が住んでいる
ウラル山脈の背後にあるこの州は、ロシアで最も重要な工業地帯の1つであり、世界最大の石炭埋蔵量を誇っている
ノボクズネツク製鉄所の鉄鋼だけで、第二次世界大戦において、赤軍のために5万台以上の戦車と4万5千機以上の航空機を生産するのに貢献した
この奇妙な物語の主役は、ケメロヴォ州のクラスノヤルスクとノヴォクズネツクの2つの町のロシアの警察官、約80人の男たちである

部隊の損失は未だ公表されず、正確な人数はまだ不明である
しかし、ケメロヴォの隊員の、およそ60人は「Otryad Mobil'nyy Osobogo Naznacheniya(特殊目的機動部隊)」、通称OMONに所属していたと考えられている

また、20人は「Spetsial'niy Otryad Bystrovo Reagirovaniya(特別即応部隊)」、通称「SOBR」部隊のメンバーだったと推定されている

SOBRとOMONは国家警備隊(通称、ロスグバルディア)の管轄下にある国家憲兵隊に似た準軍事警察部隊である
OMONはいわゆる機動隊であり、主に、抗議活動を迅速に鎮圧する役割を担っている
「戦争反対」のプラカードを掲げることが国家反逆罪になるプーチンのロシアでは、抗議活動鎮圧専門の機動隊が必要なのだ
一方、SOBR部隊は、米国警察のSWAT部隊のようなものだ
OMONとSOBR 部隊が、チェチェンや北コーカサスなど、ロシアの不安定な地域に出動することはよくあることだ
シリアやカザフスタンのような旧ソ連の属国などの国境外で、クレムリンの外交利益を支援するために活動する

SOBRとOMONはロスグヴァルディアのスペツナズ部隊、つまり「特殊部隊」に位置づけられている
デモンストレーションではたびたび、サーカス的なパフォーマンスを行っている

ロスグヴァルディアは超マッチョイムズを発揮しているが、ロシア軍の歩兵と同等とは言えず、80%の軍国警察と20%のヘルズ・エンジェル(暴走族)のようなものである

1月下旬

1月下旬、ノボクズネツクのキーロバ通り14番地にある淡い黄色の3階建てビルに、ケメロヴォのOMONとSOBRの司令官たちが集まった
警官たちの厳しい表情は、ケメロヴォ・ロスグバルディヤの初任給が年間37万2千ルーブルであることに起因しているのかもしれない
年俸5,100ドル強、つまり米国警察官の平均月給である

そうでなければ、ロシア連邦の西の果てへの巡礼準備をするようにと命令されたせいだったかもしれない
巡礼の目的は「訓練」という大まかなものであった

2月3日

2月3日、数十人のOMON、SOBR隊員がロシア西部の都市スモレンスクまでの約2600キロの旅に出た
スモレンスクに着くと、ケメロヴォの将校たちは、ロシア全土から集まったSOBRやOMONの将校に第141特殊自動車連隊のチェチェン人などが加わった、2万5000人以上のロスグバルディア軍と合流した

数日間かけて陣形を整え、師団規模となった部隊でベラルーシに移動し、大規模な共同「訓練」に参加することになった
男達の中には、野外で何週間もの過酷な労働を強いられることを嘆く者もいたようだ

しかし、ペルミ地方OMONのデニス・ソコロフ少尉(38歳)のように、「エリート警察官だから仕方がない」と割り切れる人もいた
ソコロフは10年近くロスグバルディアの警察に勤務している
ソコロフはナターリャに「結婚して家庭を持つと、ロシア連邦のために献身することが妨げられるのではないか」と言っていたほどの愛国者である
「彼は『私には国に仕えているから、人生がどうなるかなんて、誰にも分からない』と言っていた」
と、ナターリャは言う
ソコロフは結婚し、娘を持ち、中尉になり、妻と娘を残してベラルーシに行くことになったのである

将校たちは、大規模訓練「ザスロン・2022」は、ロシア軍とベラルーシ軍との大規模合同訓練「ソユーズナヤ・レシモスト・2022」、コードネーム「ユニオン・リゾルブ・2022」の一環として行われると伝えられた

ケメロヴォの将校たちはベラルーシを横断し、ウクライナ国境から約7キロ、車で37キロ離れたノバヤ・グレブリヤという小さな村の近くに落ち着いた

それから2週間、P35高速道路に近いブラギン地区の密林が彼らの住まいとなった
この間、「訓練」はほとんど行われていない
生き残った将校たちは、全体的な訓練目標などなかったと語っている
将校たちは、「すべての警備隊ユニットの戦闘的結束を達成すること」が目的だと聞かされただけであった
野宿した一行は、全体的に混乱した雰囲気だったという
この頃、西側の情報機関は、ロシアがウクライナに侵攻しそうだという警報を鳴らしていた
ケメロヴォの将校たちの中に、その心配を家族や友人に話した者はいなかったようだ

2月23日

2月23日夜、ロシア連邦保安局(FSB)がやってきて、ケメロヴォの部隊の携帯電話と軍籍カードをすべて回収し、出動の準備をするように命令した

2月24日 早朝

2月24日の早朝、SOBR司令官のコンスタンチン・オギー大佐は部隊を集め
「ロシア連邦軍のウクライナ領土奪取を支援し、ウクライナ市民による抵抗を制圧し、その支配権を確保する」と発表した
OMONの指揮官、ディルマン・セルゲイ・アレクサンドロビッチ大佐も、約60人の機動隊員を率いて同じことを伝えた
特別に部隊を鼓舞するような演説はなかった

「最後に彼と話したのは、侵攻の前夜です
彼は、車のナンバープレートを取り、携帯電話を渡すよう強制されたと話すビデオを送ってきました
それが、彼との最後の会話です」
と、とあるOMON隊員の友人は、匿名を条件に語っている

プーチンは「ウクライナの非武装化」と「非ナチス化」のための「特別軍事作戦」の開始を宣言していたが、南下するケメロヴォの将校たちは、ロシアが本格的な軍事侵攻の最中にあることを誰も理解していないようだった

SOBR内務省の上級刑事アストホフ・ミハイロビッチ中佐は、ウクライナの取調べに対し、2月24日の夜、チェルノブイリ原発の立ち入り禁止区域で車列が停止するまで、ウクライナにいることさえ気づいてなかったと証言している

「物がたくさんある車に乗っていたのでずっと分からなかった、窓の外の状況を判断するのが難しかった
でも、夜に、タバコを吸いに外に出たとき、『立ち入り禁止区域 』という看板が目に入ったんです
それで、ここがプリピャチだと分かりました」

手錠をかけられ、担架に横たわったミハイロビッチ中佐は、信じられない様子で「訓練だと思った」と語った

「私たちは警察官だから、他国の領土に立ち入ることはないだろうと、最後まで願っていました
ベラルーシとは何らかの協定があるかもしれない
しかし、ウクライナとは、理論上、ありえない
それでも、たまたま、ウクライナの領土に入ったんだ」
ミハイロビッチは、疲れきって老け込んだ様子で、天井を見つめていた

他のメンバーは、2014年にロシア軍がクリミア半島とドンバス東部を占領したときのように、最小限の抵抗しか受けない「クリミア・シナリオ」ではないかと考えていたようだ
何十人ものロシア人兵士が、何の心構えもなく戦争に駆り出されたというのは、理解しがたい
しかし、兵士たちの証言の一貫性とその膨大な量から、ほとんどの兵士が第二次世界大戦以来最も重要な欧州における軍事衝突の参加者になったことに気づいていなかったことは、確からしいのである

カディロフ

チェチェン共和国将軍カディロフとチェチェン共和国警備隊副長ダニイル・マルティノフ大佐との間の電話の会話を傍受したところ、ロスグバルディア司令官がウクライナ侵攻の計画を知ったのは、わずか1週間前であったことがわかった

南方の隣国に攻め入るという知らせは、多くのロシア軍司令官に大きな衝撃を与えたようだ

「今日、スモレンスクにSOBR、OMON、特殊部隊の軍事分遣隊の司令官たちが集まりました
ほとんどの指揮官は、今日初めて、我々が直面するすべての任務と目標を聞きました」
マリティーノブはそのように興奮しながら、カディロフに語っている

「正直言って、多くの指揮官が目を見開き、かろうじて感情を抑えて聞いていました
多くの指揮官が、報告書提出を拒否する 「リフセニック(任務拒否)」が出ることを心配しているという話がありました」
「もちろん、我々にはそんなことはどうでもいいことです
私たちはこのために、今日まで訓練を重ねてきたのです」
と、マルティノフはカディロフに話している

ロシア軍司令官の多くは、戦闘拒否されることを恐れて、兵士に伝えなかったかもしれない
特に若い兵士の多くは、ウクライナは「小ロシア」、ウクライナ人は「小兄弟」と教えられて育ってきたからだ
政治学者のアンドレイ・オカラいわく
「民族的なロシア人なら、最も親プーチンで最も熱心なヴァトニック(盲目的な露愛国主義者)でさえ...極限状況では、必ずウクライナ人との共通の言語と接点を見つける」という

2月24日 午前8時 ホストメリ空港(アントノフ国際空港)の攻防

侵攻初日の午前8時、露軍第11、31親衛空襲旅団の空挺部隊(VDV)が、首都から6マイルと離れていないキエフ郊外のホストメリ空港を大胆に空襲した
ウクライナは攻撃前にCIAから十分な警告を受けていたにもかかわらず、不意を突かれたようだ
20から30機のMi-8ヘリコプターとKa-52攻撃ヘリコプターの支援で、数百人のVDV部隊が飛行場に降り立ち、素早く制圧した

民間人のビデオや、近くにいたCNNのジャーナリストの現地レポートにより、ホストメリ空港襲撃は、侵攻初期の最も劇的で象徴的な瞬間となった

しかし、VDV部隊の成功は長くは続かなかった
制圧後間もなく、武装した市民とウクライナ第3特殊目的連隊の特殊部隊に包囲されることになった
午前中のうちに、ウクライナ軍第4即応旅団とジョージア軍団による大規模な反撃があり、VDV部隊は孤立化し包囲された
ロシア軍の最初のミサイル攻撃はウクライナ空軍を無力化できず、ウクライナ軍のSu-24とMiG-29戦闘機も支援に加わり、23mmと30mmの大砲を浴びせて、VDV部隊を苦しめた

ジョージア軍団のマムカ・マムラシビリ司令官は、部隊の弾薬が尽きたので、ロシア軍のVDV部隊に車で体当たりしたと証言する
「もう弾丸が無かった
もう弾がなかったから、BMWで轢いたんだ
なんなら俺のBMWのへこみを見せてやろうか」
と司令官は誇らしげに笑った

昼過ぎから夕方にかけて、数百人と推定される露軍VDV部隊の残党は、近くの町や周囲の森に逃げ込んだ
露軍の最も訓練され、最も尊敬されている兵士たちがホストメリ空港で惨敗したことは、クレムリンにとって、この戦争の最初の洗礼であり、挽回不可能な失敗となった

2月24日夜 ケメロヴォのロスグヴァルディア部隊

ケメロヴォの将校たちは、最前線から遠く離れていたため、侵攻後24時間、繰り広げられた攻防を知る由もなかった
車列の最後尾を走っていたケメロヴォの将校たちは、24日の日没前、プリピャチに到着した
世界最悪の核災害が起きたこの場所は、すでに露軍第5別働隊の戦車旅団が占領していた
オシュリコフ軍曹は「遠くで飛行機や銃声、爆発音が聞こえた」と語っている
最初の24時間、ケメロヴォの将校たちには、すべてが計画通りに進んでいるように思えた

"Everyone has a plan until they get hit(誰だって、一発食らうまでは計画がある)"

運命の日のケメロヴォの将校たちの行動や考えをすべて正確に把握することは不可能だ
率直に言えば、ほとんどの人が物語を語れるほど生きていない
生き残ったのは、わずかな捕虜だけだ

生存者の記憶も、突然の発砲音と仲間の体が引き裂かれる耳障りな爆音で不確かなものになっている
徹底的な科学捜査をするのに、理想的な条件とは言い難い
生存者の証言さえ、正直に話そうとする者の証言でさえ、間違いないと確信することはできない
目撃者が正直であることを見極めることも難しい
偉業を誇張し、敵の行動を矮小化するのが人間の性である
戦争では、時に卑怯な行為が称賛されることもある
それが戦争についての学問である
戦史家は、殺し合いの間に発生した事柄を間違いなく認識することは不可能であるとを受け入れなければならない
しかし、それでも、この奇妙で混沌とした出来事について、少しはましな理解を形成できる情報がある

ロシア軍は、予想をはるかに超える激しい抵抗に遭い、すでにクレムリンの想定したスケジュールより遅れていた
当初の計画に最も大きな打撃を与えたのは、VDV部隊によるホストメリ空港制圧の失敗だ
ロシア軍は、ホストメル飛行場に18〜20機のイリューシンIL-76輸送機を着陸させるつもりだった
この航空輸送隊は、数時間のうちに2個大隊戦術群(BTG)の兵員と装備をキーウの玄関口に運ぶことができた
完璧なシナリオでは、東西5つの侵攻軸を進めると同時に、2月25日にはホストメリ空港を制圧したVDV部隊がキーウ郊外に到達していると想定していたのだろう

プロイセン元帥ヘルムート・フォン・モルトケの有名な言葉に
「いかなる作戦計画も、敵主力との最初の遭遇の先を確実に計画することはない」
というのがある

現代の軍事界では、この言葉が短縮されて
"No plan survives contact with the enemy(敵に遭遇したら計画は無くなる)"と言われている
マイク・タイソンに言わせると
"Everyone has a plan until they get hit(誰だって、一発食らうまでは計画がある) "だ

この日の朝、ロシア軍はウクライナの喉元に迫っていなかったし、ましてやキーウを屈服させられるような状態ではなかった
東側でロシア軍が到達できたのは、キーウから150マイル離れたコノトップという町の近くだった
他の部隊はチェルニヒフを迂回しようとして立ち往生し、軽歩兵VDV部隊は装甲や砲兵の支援なしにスミに入ろうとして壊滅的な打撃を受けていた
西側からの進攻は、地勢が弱いため、あまりうまくいっていない
ホストメリ飛行場を失った地上軍は、キーウから約60マイル離れたイヴァンキフにさえ近づくことができなかった
ホストメリ飛行場に展開するはずだったVDV空挺部隊の大部分は、まともな理由なく、キーウ東部のチェルニヒウ近郊に再配置された

2月25日 ケメロヴォ部隊

その頃、ケメロヴォ部隊は、P02ハイウェイを南下していた
この時点ではまだ警察官は後方部隊で、第5別働隊戦車旅団が前衛として、キーウの北西50マイルにある人口1万人の町、イヴァンキフへの突撃を開始したのである。

ロシア軍の指揮官は、アントノフ空港を奪還することは不可能だと理解していたはずである
それにもかかわらず、モスクワはアントノフ空港を再度の空襲した
露国防省は第2ラウンド(実際は、おそらく第3ラウンドか第4ラウンド)には、VDV部隊を載せた「200機のヘリコプター」を投入したと主張している
しかし、戦闘を目撃したジャーナリストのティムール・オレフスキーは、これを否定している

そして、士気の高い武装したウクライナ人に囲まれた陸の孤島に最も優秀な兵士を落とすのは得策ではないと考えたのだろう
P02ハイウェイの隊列にいたケメロヴォ部隊を含むロスグバルディア自動車化歩兵部隊は、VDV部隊を支援するためにイヴァンキフを迂回し、ホストメリ空港に向かうように指示された

こうして、露陸軍の一部がイヴァンキフで激しい戦闘を繰り広げている最中に、ケメロヴォ部隊はホストメリ空港に向かうことになった

アントノフ空港では、数百人のVDV部隊が2度目の大規模な空襲を行っている最中であった
同時に、最初の空襲に失敗した空挺部隊の生き残りが、近くの住宅地を必死に走り回る姿が目撃されている

私たちは後知恵によって、あの朝、キーウの西側で起きていた混乱が何となく分かるが、ケメロヴォの将校たちは、周りで起こっていることに気づきようが無かっただろう
それどころか、「キーウに行き、露連邦軍を支援せよ」という漠然とした指示に従い、イヴァンキフを迂回し、ホストメリ空港へ向かう車列の後ろに並んでいた
「任務が、具体的に決まっていなかった」
と、ミハイロビッチ中佐はため息をつきながら言う

順風満帆に進んでいたケメロヴォ部隊だったが、キーウが近くなってくると、なぜか孤立していた
「何が起こったのかわからない
我々は隊列の最後尾にいたのに、どういうわけか先頭にいて、他に誰もいなくなったのです」
とミハイロビッチ中佐は証言する
機械化部隊の大規模な車列から、ケメロヴォ部隊がどうしてはぐれたのかは今も謎だ

生存者は皆、キーウに向かうようにとの指示だけで、それ以上の指示は受けないと主張している
首都の外に指定された集合場所があったとしても、誰もそれを知らなかった
同様に、ホストメリ空港の奪還計画についても、誰一人として手がかりがなかったようである

彼らの本隊は、イヴァンキフを迂回し、2車線のP02高速道路をしばらく走った後、フェネビチの集落近くで南東に曲がり、いくつかの細い道を通って北西からホストメリ空港にアプローチしていた

恐らく、ケメロヴォ部隊は計画の変更を知らされていなかったので、ホ ストメリ空港に向かう曲がり角を見逃し、P02ハイウェイを東の矢印方向へ進み続けた可能性が高い

この間違いを犯したのは、ケメロヴォ部隊だけではなかったようだ
キーウから北へ15マイル、ドニプロ川のほとりにあるP02ハイウェイ付近のダイマーという町で、ロシア軍部隊がうろついているのが目撃されている
そういうわけで、2月25日午前8時前、ケメロヴォ部隊のOMONとSOBRの幹部約80人は、突然、敵陣の奥地で孤立しまったのである

おそらく、アレクサンドロビッチ大佐はまだOMONの部隊を率いており、オギー大佐も同様にSOBRの将校を指揮していた
しかし、この時点で、迷子になったロスグヴァルディアたちの総指揮官が誰であったかは不明である
総指揮官がいたとしたら、孤立無援の状態で、突然、重大な決断を迫られたことになる

通常、ある部隊が大規模な本隊からはぐれた場合、はぐれた部隊は事前に指定された集結地に移動し、防衛線を確保し、任務を続行する前に説明責任を果たさなければならない
「キエフに行け、着いたら教える」というのが将校たちの唯一の任務だったので、あらかじめ決められた集結地点が設けられたかどうかは疑問である

将校は近くに防御可能な場所を探し、駐留し、本隊部隊との連絡が取れるまで、その場しのぎの集結地点を設置しようとしたかもしれない
同じような運命に見舞われた、ダイマー付近で見かけられた軽装備の部隊はこの選択肢をとっていた
元の場所に引き返すことも考えただろう
この場合、第5別働隊戦車旅団の部隊が戦っている、イヴァンキフ方面に戻ることになる
理想的な選択肢とは言えないが、それでも選択肢の一つであった
そして、最後の選択肢として、進み続け、本隊に合流できることを願うという選択肢があった

このとき、スラブ民族のメッカである古都キーウが、ケメロヴォの将校たちに呼びかけ、その抱擁を求めたのかもしれない
あるいは、ジョージ・カスター将軍の「兵法」の信奉者であったのかもしれない

ジョージ・カスター将軍:無謀ともいえる突撃を繰り返した南北戦争時代の将軍

つまり、その朝、決断すべき男は「最後の選択肢」がベストだと思ったのだ
“LEEEEEEROY JENKINS!!!!”

キーウを目の前にしたロスグヴァルディアたちは、まるで『グランド・セフト・オート』をプレイする無邪気な子供のように、猛ダッシュしていった

P02高速道路を降り、スヴィアト・ポクロフスカ通りを経て、ホストメリとブチャとイルピンの中央交差点に向かってまっすぐに走った
この交差点から、アントノフ空港まで3キロもない

もし速度を落として、右折していたら、飛行場にぶつかり、おそらく仲間のロシア軍に馬鹿にされるだけで済んだだろう

しかし車列は、ホストメリの中心部へと突っ込んでいった
高速道路E373をキーウ北部のオボロン地区方面へ向かう車列を、キーウ市民たちは唖然として見ていた

午前8時11分、車列が交差点を颯爽と通過する様子が監視カメラに記録されている

この映像は、「ロシア兵がウクライナの車両を奪取し、ウクライナ兵に偽装してキーウに侵入しようとしている」という警報と共にSNSで広まった
その原因は、車体に「Z」も「V」も「O」も描かれていなかったからだと思われる
ウクライナ参謀本部も、釣られて、警告を流すことになってしまった

実際には、計画的な偽装ではなく、無計画で無謀な行動の結果に過ぎないことが、今は明らかである

イルピン川の戦い

8時11分から1分も経たないうちに、このロスグヴァルディアたちはイリピン川にかかるE373道路の橋にさしかかり、そのままキーウのオボロン地区中心部へと向かった
しかし、残念なことに、この橋を渡りきることはできなかった

先頭の装甲車が橋を越える瞬間、攻撃を受けたのだ
金属片や車体が四方八方に飛び散り、その車両は破壊された
将校たちは抵抗を試みたが、なす術も無かった
約100フィート後方にいた、OMONを乗せたトラックは殺戮をぼんやりと眺めていた
運転手はすでに射殺されたか、恐怖で動けなくなっていた
後続のBTRもトラックも悲鳴を上げながら急停車し、ドライバーたちは必死で逃れる術を探しただろう
しかし、無駄なことだった
将校たちは橋の上の致命的な漏斗の中に入っており、キーウの防衛隊にとってはただの七面鳥のようなものだった

少なくとも5人のOMON隊員は、火だるまになりながらトラックから出てきた
一人は、反対車線のガードレールにたどり着き、そこで力尽きた
他のOMONとSOBRの将校たちは、すぐに車両を降り、キーウ方面にライフル銃を乱射し、死から逃れようと足掻いた
イルピン川の戦いはほんの数分で終わった
80人近いロスグヴァルディアと軍用車は、燃えカスやねじれた金属片の山になっていた

プロパガンダ

生きて捕虜になったのは3人である
SOBR ドミトリー・ミハイロビッチ中佐は右足に重傷を負った
OMONのコベレフ・エフゲニー・ビタリエヴィッチ上級曹長も左足に重傷を負った
OMONのエフゲニー・プロトニコフ大尉は、顔のほぼ半分のグレープフルーツ大の紫の巨大な傷を負っている

2月27日、シベリアのローカルニュース「Tayga」は、SOBR司令官コンスタンティン・オギー大佐を含むケメロヴォ地域の、少なくとも42人のSOBRとOMONが殺害されたと記事にしたが、すぐに削除された
3月4日、ロシアのノボクズネツク市のセルゲイ・クズネツォフ市長は、インスタグラムに「オギー大佐は生きている」と投稿し、賞賛した
「クズバスで唯一、勇気の勲章を3つ持っている人物です
勇気の勲章を3つも持っているんだ!」
とクズネツォフは書いている

同日、ロシアのニュースサイト「360Tv」は、オギー大佐は地元住民に助けられ、「5人の部下とともに反撃し、森に逃げ込むことができた」と報道している

ロシアのメディアによれば、このロスグヴァルディアたちは、ウクライナ軍の待ち伏せに遇ったことになっている

クレムリン、ロシア国防省、国家警備隊の広報担当に、2月25日に死亡したケメロヴォ部隊の数について質問要請があったが、予想通り、どの機関も無回答だった

3月5日、ノボクズネツクのOMON基地で開かれた会合では、ケメロヴォ州知事セルゲイ・チビリョフに対し、家族や友人らが詰め寄った
チビリョフは「すぐに終わるから」と言ってなだめようとしていた

チビリョフの右隣に座る禿頭のOMON司令官は眼鏡を外し、眼鏡をいじるだけで、怒った顔を上げなかった
チビリョフの左隣の州兵司令官は無表情だった
体育館に群衆の怒号が飛び交う中、突然、誰かが叫んだ
「『すぐに終わる』というのは、全員が死ねば 『終わり』ということですか!?」

3月7日 ミハイロビッチのスピーチ

ウクライナ独立ニュース情報局(UNIAN)は、ケメロヴォ部隊の生存者3人組の記者会見を開催した
ミハイロビッチ中佐は、実質的な代表者として、ロシアの侵略に参加したことへの後悔と、利己的な指導者にだまされて戦争を始めたロシア兵への同情を訴えた
このような捕虜の姿は、戦争当事国の例外的な宣伝になるのだから、本楽、捕虜の本音が聞けるものでは無い
しかし、気難しそうなミハイロビッチが、意外なほど誠実に台本にない素直な言葉で語っているように見えた

「私たちは、ロシアにいる間、メディアを通じて、ウクライナに対する疑惑やウクライナがナチスに支配されていると聞かされました
文字通り、100%間違っていました」
「ウクライナの領土はファシスト政権に支配され、民族主義者、ナチスが権力を握っており、(中略)普通の人々へのこの『くびき』を取り除くために何らかの手助けが必要だ、というのが目的でした」

ミハイロビッチは、クレムリンの情報支配によって、ロシアの市民が自分の目の前のこと以外を分析したり、自分の意見を持つことができないことを説明した
疑問を持っている人たちでさえ、真実を見極めるのは不可能に近いと彼は認める

ミハイロビッチは、ウクライナのプロボクサーに憧れたことがきっかけで、モスクワのシナリオに疑問を持つようになったと、自発的にボクシングへの情熱を話した
「プロボクサーの国籍を見たら、ウクライナのボクサー達でした
家に帰って、いつも見ていた
ウシクとロマチェンコです」
ボクシングの話をするとき、ミハイロビッチの顔は明るくなった
「私は彼らが大好きです
自分で言うのも変ですが、本心です
その人たちが、武器を取り、「お前なんか呼んでない」と言ってる
今では、この国に来たことを恥ずかしく思っています
ウクライナの領土に来たことを」
「この女性(ウクライナ)はここで泣きながら立っているんです
恥ずかしく思っています
なぜ、私たちがこんなことをしているのか分からない」

ミハイロビッチは人々に対して腕を広げ、呼びかけていました

「このビデオを見る人が、私をどう思おうとどうでもいい
強制されたとか、脅迫されたとか、テキストが事前に用意されていたとか、そんなことはない
はっきり言ってやる
もし自分の領土に誰かが来たら、この人たちと同じことをするだろう
そして、この人たちが正しいと思います
私の祖父は(第二次世界大戦でナチスと)戦いました
そして今、私がナチスの死の部隊のメンバーのようにしてここにいます」

「これはロシア軍に関する私の個人的な感情です
もし、私の話を聞いているなら、みんな勇気を出して!
私はすでにこのような状況にあるので、本当の事を言うのは簡単です
君たちは自分の指揮官に逆らうという緊張した状況にある
しかし、これは大量虐殺だ
人々はただ殺されているのです」

10分近いスピーチの間、感情を露わにしたミハイロビッチは、自分への慈悲は求めず、降伏する勇気を見出した他のロシア兵たちへの慈悲をウクライナ人に懇願した

「ウクライナの人たちに申し訳ないと言う言葉が見つからない
私は、捕虜になった人や負傷した人の、健康と命を救ってくれるよう懇願します
手を挙げて降伏する人たちに慈悲を与えてください
そうすれば、物理的だけでなく、精神的にもウクライナは勝者になるでしょう」

「領土を侵略することはできても、国民を侵略することはできません」
ミハイロビッチは胸に手を当てながら話していた
「ロシア人は我々が今している行為を恥ずかしく思い、ロシア人であることを恥じるだろう
お願いだから手遅れになる前に止めてくれ」

客観的に見れば、何の準備もなく、完全に自滅的な状態で戦争に突き進んだケメロヴォの将校たちに、一抹の同情を禁じ得ない
家庭を持つことを恐れていたソコルブ中尉の予言が的中してしまったことも悲しい
中尉は、棺桶に入って帰国することになる
葬儀の席で、同僚はソコルブ中尉はOMONを引退し、「子供たちに専念する」つもりだったことを語っている
ロシア国民がいかに政治指導者に騙されているかを懸命に説明し、許しを請うミハイロビッチ中佐の姿に感動せずにはいられなかった

キーウ郊外のブチャでただ、自転車に乗っているところをロシア兵に射殺された52歳のイリナ・フィルキナは、まさに無実の犠牲者である
イルピン川の橋の上で死んだケメロヴォのロスグヴァルディアたちは、ロシアのブチャ占領中に何週間も道端に遺体を放置されたフィルキナと同じ扱いを受けることはできないし、そうであってはならない
OMONやSOBRのロスグヴァルディアたちは、義務感などのイデオロギー的な理由、金銭的な動機、あるいはロシアの強大な法執行機関の一員であることからくる権力へのあこがれなどから、自らの意思でその道を選んだからである
彼らが血に飢えていたと非難するのは不公平だろう
しかし、彼らの期待されている職務が、殺したり殺されたりするものであることに、彼ら自身が気づいていなかったと考えるのも、ナイーブ過ぎる
彼ら自身がモスクワの 「特別な」法律家なのだ
モスクワのいわれのない侵略戦争で、罪のないウクライナ人が何人も命を落とし、戦争犯罪の犠牲になっているのだから、主観的には、ロシアの兵士に慈悲を感じるのは難しい

結局のところ、モスクワのOMON師団の公式モットーは、キーウを襲撃しようとしたケメロヴォの将校たちの哀れな試みに対する葛藤を和らげる、最も敬意ある方法を提示している

師団のバッジに描かれた、力強く怒りに満ちたバイソンのイメージを囲む、そのモットーは
「特殊部隊は慈悲を知らず、決して慈悲を求めない。それが過去であり、現在であり、未来である」

(Special thanks to the open-source intelligence group: Conflict Intelligence Team, who were the first to notice the bizarre actions of the Kemerovo officers early in Russia’s war in Ukraine. You can follow CIT on Twitter @CITeam_en )

Tim McMillan is a retired law enforcement executive, investigative reporter and co-founder of The Debrief. His writing covers defense, national security, and the Intelligence Community. You can follow Tim on Twitter: @LtTimMcMillan. Tim can also be reached by email: tim@thedebrief.org or through encrypted email: LtTimMcMillan@protonmail.com.

(終わり)

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