この戦争は、どう始まったか -ミコラ・ドンチェンコ(2)
(3,500 文字)
現在も治療中ですか?
今は違います
11月4日に、何と言えばいいのか...
健康上の理由で退院することになりました!(笑)
ほら、ハルキウから運ばれてきたとき、腕にプレートを入れて、18本のネジを打ち込んでるんです
しかも、まだ取り出せていない欠片もあります
それで、感染症になって炎症も起こしました
3ヶ月間、抗生物質を注射することで適応しました
その後、休職を与えられて、毎日病院に包帯を巻き直しに来ていました
8月に言われたんです「海外に送るから、そこで全部やってもらってくれ
人工関節、人工器官を入れる必要がある」とね
でも、まだ実現してないんですよ
まだ、包帯を巻いていますが、腕の状態はいかがですか?
まだ手術が必要なんですが、今はすべて自費でやらなければならないんですよね
国が治療するのではなかったのですか?何か問題があったんですか?
10月31日、私はイルピン病院の経営者に要望書を渡しました
答えを待っているところです
今のところまだ回答は受け取っていません
健康上の理由でこの戦争に行かない事もできたのに、なぜ行ったのですか?
やるべきことをやっただけです
ドクターたちが良心に従い、今、私に同じようにしてくれているように...
海外で治療するための書類が用意されて、すべてが午前中のうちに終わってから、午後に担当医が来て「チーフ・ドクターが退院してくれと言ってます」と言われました
だから、すでに言ったように、健康上の理由による退院ですね
私立のクリニックで診察を受けたところ、そのような手術には20~25万フリヴニャほどの費用がかかり、手が動く保証はないと言われています
そういえば、どこかの民間クリニックが、軍人を支援するプログラムを立ち上げていたような...
ボランティアを通じて現在も専門の外傷学研究所で経過観察中です
何段階かの手術が必要なんです
半年くらいかかると言われています
アフガニスタンの従軍経験があるとお聞きしていますが、比べてみてどうでしょうか...
いや、比べられないですね!
あのね、あの時、私は反対側だったんです
今の私は、あの人々が感じていたことを感じる番なのです
でも、その時は、自分が正しいことをしていると信じていたのでしょう?
はい、そうです
18~19歳の頃です
私は、自分たちの南の国境を守るのだと信じていました
イデオロギーがそういう風に働いていたんです
正直に言うと、ムジャヒディンには大きな憎しみがありました
今、ロシアを、憎んでいるのでしょうか?それとも違うのでしょうか?
憎しみはないんです
感じるのは嫌悪感です
あのね、アフガニスタンの頃、私はとても若かった
あの戦争の後、私の心は壊れました
それを今日、私ははっきりと理解し、実感しています
戦い方は比較できるのでしょうか?
それも比較できません
なぜなら、今の戦争は重兵器によるもので、ここでは、歩兵は二次的な役割を担っているだけだからです
本格的な侵攻が始まった当初は、重装備や武器の入手の問題がありましたが、あなたはどうやって武器を手に入れたのですか?
軍事チケット(注:兵役IDを発行するための申請書)を持って州庁舎へ行きました
2月24日は十分な武器は無く、夜まで待ちましたが、結局、貰えませんでした
翌朝にまた来るように言われ、そして、ようやく武器を受け取りました
手続きを済ませて…その時のことはとてもよく覚えています
指揮所の地下室から外に出たとき、広場は人々で埋め尽くされていたんです
さらに、続々と集まってきていました
それで「絶対に勝てる!」と感じたんです
そんなに人が集まるとは思っていなかったのですか?
本当に予想外でした
多くの人が街を離れていくのを見たのです
しかし、とても多くの人たちが親族、友人、家と祖国を守るために集まったのです
とても素晴らしかった
私たちが戦っている相手については...
軍隊と呼ぶのも勿体ない
あいつらはクズです!
私には他に言葉が無い
私は猟銃を2丁装填し、妻に言いました
「もし彼らが私服で来たら 、撃つんだ、きっと我々はそれに対処する
もし、軍隊が来たなら、銃は持つな」
奥様は銃を撃ちましたか?
いや、撃たずに済みました
ところで、奥様はどうやってあなたの怪我のことを知ったのですか?
息子からです
集中治療室から電話したくて、電話が何処にあるか分からなくて、先生に私の電話を持ってくるようにお願いしたんです
私は自分の身に何が起こったのか、彼女に話すつもりはなくて、何も問題無いと言うつもりでした
でも、先に息子が電話で話していました
息子さんは、侵攻前にTROに登録されたのですか?それとも、2月24日の後に加入したのでしょうか?
息子は契約していませんでした
まず、息子は24日に領土防衛軍(TRO)の入隊登録窓口に出向きました
すると、息子から「何か障害がある」と電話がかかってきました
それで、「うちのTRO部隊に来ないか」とオファーしたのです
私の知る限り、彼は軍人ではありませんよね。彼の戦争への決断をどのように受け止めたのですか?息子さんのことが心配だったのでしょうか?
はい、とても心配でした
しかし、後で別々の部隊に分かれて、私は息子を守るために戦争に行ったのに、結果的に息子に命を救われました
知っていますか?
ボランティアの方に必要なものは何かと聞かれて、息子は「動物たちの餌」と答えたんです
砲撃を受け続けている中で、猫に餌をやっていたんです(微笑)
息子が外に出ると、あちこちから動物たちが駆け寄ってきていました(笑)
このような人間性という点で、私たちはロシア人とは大きく異なります
私たちの軍隊は動物に餌をやり、戦火の中でも負傷した仲間や倒れた仲間を連れ帰ります
占領者たちは戦場でも戦場でなくとも、仲間たちを見捨てています
最近、ドンバスで戦っているイホル・ルセンコ(ウクライナ人ジャーナリストであり兵士)が、ある村の校舎の裏で、ロシア軍が兵士の入ったボディーバッグが並べられたまま放置されていたことを書いています
そう、ロシア人たちは死者を数えさえしていないのでしょう
イホル・ルセンコ:
なぜ、そう思うのでしょうか?
なぜなら、それがあの国だからです!(人の命は)シャボン玉みたいなものです!?
しかし、凄い数です
そう
彼らは量だけは凄いんです(笑)
実際、彼らは大量に奪います
それをどう克服していくのか。
私たちは、自分たちの土地のために戦っているのです
モチベーションが全然違います!
それが人というものです
私たちのボランティアの人々を見てください
軍隊の役に立つために何でもしています
ハルキウ地方にいたときは、たくさん支援を受けました
政府には、軍備を整えるだけの資金がありませんでした
そこで、またもやボランティアが現れました
これは本当にありがたく、光栄なことでした
ロシアには戦争を止めるつもりが無く、我が国から軍を撤退させるつもりがないのは明らかです
いつまで続くと考えていますか?何年も続くことがあるのでしょうか?
何年も引きずることはないと思います
レンドリースは効いています
我々はさらに多くの武器を手に入れることができるでしょう
春のどこかですべてが終わるだろうと思います
最終ステージはクリミアでしょう
クリミアはウクライナです!
今日も戦っているローマン・コステンコ議員は、インタビューで、ロシアは今、面目を保ちつつ、この戦争から抜け出す方法を探していると言っていました
クリミアとドンバスの一部を占領したまま、ウクライナを美しく去るという選択肢を考えているのだと言っています
しかし、我々は1991年に有していた全領土を取り戻さなければならないのは明らかでしょう...
ローマン・コステンコ:
それこそ、ウクライナのあるべき姿です
なぜなら、私たちは極めて高い代償を払ってきたし、今も払い続けているのです
国民の命という代償です
たくさんの死者が出ています
私のいとこもドンバスで殺されました
ですから、私たちは、この土地を一センチたりとも譲る必要はないはずです
(終わり)
参考:
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