旅に出ても、もどる街で
途方に暮れる経験だった。旅は仕組まれた“絶望”というねじれた装置がなぜ発火し身を砕くのか、確かめる作業のようなものだった。
ただここを離れ、罪悪感を解き放ち、安定した情緒を回復しようなどとはあつかましい。それはどうにもならないことだ。
“孤独”な時限爆弾は、置き去ろうとしても離れない。耐える以外に対処のしようもない。植物が枯れるのをじっと待つように。
西成、新世界、天王寺。生まれ育った場所ではない、友人もいない。ただ十代の最期をこの界隈に生きた。そしてしばしばここに帰りたくなる。
高校を卒業して、進学も就職もなくこの界隈を二年ふらついた。当時の公園は『天王寺博覧会』の開催前で柵はなかった。
公園は浮浪者の溜まり場で、お気に入りのベンチにはよく先客がいた。そんな時は夕陽ヶ丘図書館の地下の自習室で時間をつぶした。
大学に進学するような生き方をしなかった。貧しという理由で進学できなかった母の無念は知っていた、だが家族の期待は裏切った。
偏差値のメニュー表から大学を選ぶ同級生に同調できなかったし、学力で人を値踏みする環境や習慣が心底うとましかった。『そんでええんかよ』と学校の廊下の真ん中を人を寄せ付けない態度で歩いていた。
振り返りその時期を『放浪と探索の時期だったのだよ』などと格好つけてみても、結局はとても不細工な日々だった。それを“まっとう”と信じる自分がいただけのこと。
いろいろとけりをつけ結局大学には進学したが、履歴書の高卒のあとの空白は『天王寺青空短大で勉強してました』と嘲笑うかのように人に話す。しかし、ベンチに寝転び仰いだ空は本当に掛け替えのない授業だった。
あがいており、生きており、今も心の中心に“あの街”はある。
暴動が起こったあたりの“あの街”は、大昔「沼」だったそうだ。何かにそう書いてあった。本当か嘘かは知らない。しかしとても説得力のある話だ。
あそこは“よどむ”
大昔は“水”がよどんだかも知れないが、今は“人”がよどんでいる。自分もきっとそのよどみの中にいた。そして今も何かがよどむのだろう。
『通天閣はたってるんやない、こいつはここに突き刺さっとるんや』十九歳のとき、屹立するコイツを睨みつけながら誰にも聞こえないように呟いた。
街も、人も、なにもかも、バラバラになろうとするのを、通天閣は放射状に広がる路地の真ん中に突き刺さってとめている、ピン留めするみたいに…そう思った。
青い煩悶と懊悩をこの街においてきた。いま四十年の歳月を経て、いったい何をここに求めるのか、よくわからない(まさか天王寺青空短大に復学ですか?)。
ただわかるのは、ささくれだった気持ちのどこかが、まだ通天閣にピン留めされているということだろう。