切実な「せかい」
身の回りの自然の出来事は法則に従っている。いま降る雨も、雨粒一つ一つが万象を支配する法則に従って落ちるだろう、そして、自然の摂理に背いてはいない。
人間は自然に法則性を見いだし、書き表す知恵を持っている、それはすばらしい資質で、驚くべき可能性を示唆していると信じたい。しかし、人間は自然をどこまでハッキリと捉えることができるのだろうか、そしてありのままを記述することができるのだろうか。
いま、雨が降っている。旅先で大雨に見舞われている。運休する交通機関もある。
宿から外を眺めると、雨粒が落ちる現象が瞬時の事とだとわかる。あらゆる物理的・力学的な働きは、瞬時にしかも重層的に間断無く激しく続いている。
だが人はたった一つの雨粒さえも、雨粒が自然の摂理に従うより速く書き出すことができない。
「身の回りの自然の出来事は法則に従っている」と言ったところで、雨粒一滴を、降りそそぐより速く、また今あるそのままをその瞬時に説明できはしない。「出来事/変化」は知性の判断を待ってくれない。
そこで「雨が降る」というボヤケた言い方になる。または“あること”を比喩的にもしくは近似的な方法で表現する。つまり、目に映る(認知する)より細分化はできず、ひとくくりにするより仕様がない。
人が想像する世界はボヤけている。『不安』や『恐怖』そしてさまざまな情緒も、ある“ボヤケ方”から導きだされている。“ボヤケ方”は、人という生き物の生物的な限界として規定されている。
人は生(なま)の自然(畏怖する暗闇を含んだ部分/知性の光が届かない様態)”にはなす術がない。
〜台風がくる〜
翻弄されたくないが、天災にわれわれは翻弄される。
生きることも、死ぬことも、突然降りはじめ、いつの間にか降りやむ雨のようだ。しかし、この暗い“なにがし”に強い視線を向ける人がいる。
西田は「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」と言う。彼が求めた“真の実在”とは、彼の人生において他に代えがたく切実なものだったのだろう。
雨風が強いのは「台風10号」のせいだろう、しかし、それがいったい“なにがし”の真実を語るものであろうか。