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他者の創造は自分の責任ではない


自分の人生で起きていることは自分の波動が引き寄せられた結果


望む現実を引き寄せる


この物質世界で生きていると、目に見える物質が全てと思いこんでしまいそうになるけれど、すべてはエネルギー・波動でできている。

それらは視覚ではっきりと確認できないけれど、確かにある。

音・音楽・楽器の音色はわかりやすい例だね。

轟音のような大きな音・ひそやかな音・高い音色・低いかずかなヒビキ

そのエネルギーの違いを音の違いとして感じ、聴いている。

私たちの思考も同じようにエネルギーをもっている。

その思考の周波数に応じていろいろな物事が引き寄せられてくる。

望まないことを考え続けると望まない現実が引き寄せられる。

望まないことについての周波数が繰り返され、増幅する、

それに見合った物事が現実化する。

例え今、望む現実が起きてなかったとしても、

物事のポジティブな側面にフォーカスし

良い気分でいると、ポジティブに感じる周波数を持続すると

だんだんと望む現実が引き寄せられてくる。

良い気分でいればいるほど、
(ポジティブな周波数を持続すればするほど)

望む現実を引き寄せるスピードは早くなる。


この宇宙の大原則を知らないと、いろいろと周囲やたんについて言いたくなってしまう。


周囲の人や環境が~~であれば


もっと良い仕事につけたら
今の会社がもっとお給料をくれたら・・・
裕福な家庭に生まれていたら・・
パートナーがもっと優しくしてくれたら
周囲の人間関係がもっとよかったら・・・

そうであったら、もっとポジティブな思考がもてるのに・・・

書いている風見婆自身、こう考えていた時期が長かったよ。
自分の状況を社会や他人のせいにしていた。
そうして他者を責める気持ちでいっぱいだったこともある。

周囲に楽しいことがある時に楽しい気分になるのは簡単だけれど、

周囲の人に楽しい事だけ見せてくれということはできない。

他の人に自分に完璧な環境を用意してもらおうとするのはあまり良いとは言えない。

なぜなら

自分の環境を整えるのは他の人の責任ではないし、

自分のつくった状況を他の人はコントロールもできない。

それに

他の人に自分にとって完璧な環境を用意してもらおうとすることは、

自分の人生を創造する力を放棄することになるんだ。


過酷な環境に生まれた場合も?

この物質世界にはいろいろ過酷と思える状況もたくさんある。

物質世界に誕生する前、非物質世界の純粋にポジティブなエネルギーだった私たちは、

どんな状況でも思考の力によって望む現実を引き寄せることができる

と知っていた。

だから物質世界に生まれることをとても楽しみにしていたんだ。

自分の創造する力を知っていた。

自分には力があると理解していた。

そう私たちにはみな、力があるんだ。

他の人が過酷な状況にいるのを見た時、

その人も望まない場所から出ていこうとしていていずれよくなっていく

という視点をもつと、気分が和らぐ。


他の人の人生で起きていることの責任をとらなくていい


この世界には望まない現実もたくさん起きる多様な世界だ。

それらを体験することで自分の望むものが明確になる

望むものを明確にして創造する体験を楽しむために生まれてきたから。

誰しも感情のガイダンスシステムを持ち、自分の道を見つけることができる。

そういった信頼の気持ちで周囲の人を見ることが、自分のためにも相手のためにもなる。

助けてあげたいという想いばかりが先走るのはあまりよくない。

「この人は自分では無理だから、私の助けが必要なのだ」

という視点で相手を見てしまう事は有害になってしまう。

本当は、みな、自分に能力があること、自分でどうにかしたいと望んでいることも知っている。

参考


依存と自分の創造

 ここからは、風見婆の体験からわかったことを書くね。

風見婆は両親にものすごくコントロールされて育ったのだけれど、子どものためというよりは、親がそうすることで安心したかったのかなと思う。

強烈なコントロールは親として務めを果たしているという充実感になったのだろうと思う。

時代を振り返れば、親の言いつけに子どもが従う というのは当たり前のことだったしね。

けれど、わかたんだ。

いや、忘れていて思い出したんだ。

親子だろうと家族だろうと、自分の人生の創造は自分にしかできない。

親がこうしなかったから、こうでなかったから、私の人生はうまくいかないと思った時期もあった。

自分で自分の人生を創造できる事を忘れていたんだね。

親側に視点を変えると、

子どもがこうではないから、子どもがこうしてくれないから

親である自分は不幸だと思ってしまうのも違うね。

子どもに親である自分の気分を良くしてもらおうとしたり、自分の環境を整えてもらおうとすることもおかしいね。

パートナーでも同じだよね。

これは依存という言葉に置き換えられるかもしれないね。

みな力があり、この世界で自分の望むものを自由に創造することができるのだから、

自分の創造する力を放棄してしまうのは、とってもとっても、もったいない。


風見婆は、今、「自由」であることをとても喜んでいる。

自由に創造できることをとても喜んでいる。

最初から自由な人生であったら、これほどまでに思わなかったかもしれない。

強烈なコントロールを体験して得たことは、「自由の喜び」

自分の時間を自分の好きなように使える喜び

次に何をしようかとワクワクしながら考えられることの喜び


90歳を超えてなお、認知機能の衰えはあるものの健在な母からは、ネガティブで、コントロールともとれる手紙が届く。

けれど、

「お母さん、あなたの人生はあなた自身が創造したものなのですよ。

あなたには人生を創造する力があります。

(そう、創造に年齢は関係ない、老いも若きも幼きもこの世界で自分の創造している)

お母さん、あなた自身の道がきっと見つかりますから。」

ともう若いとはいえない年齢になった風見婆は思えるようになった。

読んでくれてありがとね。




自分の実体験をもとに書いています。 悩むことも迷うことも多かった、楽しんできたことも多いにあった 山あり、谷あり、がけっぷちあり、お花畑あり、 人生半分以上過ぎたけど、好奇心はそのままに 何でも楽しむ気ありありです。よろしく!!