見出し画像

本当はもう居ないはずだった私が生きてる事実に意味などない

40歳目前の誕生日を迎えた。周りから、大袈裟な程に祝われた。今日まで生きているのがほんとに信じられない、ありがとうありがとう。そんな感じの言葉をたくさんいただいた。周りからも私はもっと早くに死んでしまうだろうと思われていた。
それでも私は人生の折り返し的な年齢まで生きていて、残念な生き方かもしれないけれどこの世に存在している。別に頑張ったわけでもないし、乗り越えてきたわけでもなく、もう何も抗わず諦めたら生きていられている。強いて言うならそれが一番近いと思う。死ぬこと以外なんとやら、とか言うけれどわりとかすり傷でダメージをえぐい程受けがちな人間だ。それがこれはもう致命傷だろ、と言うしかない傷だらけでもなんとか延命している。
私はそういうめんどくせー人間である。やらかしてきた事は数えきれないし、数えるのもやめた。親しくなるのを自分なら遠慮したい人間である。
そんな私がもう無理、もうさよなら、とかかまってを炸裂させたり、 それも飽きて真っ当になろうとしたり、なろうとしたら無理だったり、もうどうでもいいか……となんとなく生きることに甘んじている。

おそらく、こいつよりはマシだとか、こいつに比べたらまだ、とかそもそも比べたりすることでは無いし私も他の人と比較して自分の感情に点数を付けるような人間ではないのだけれど。
私、つまり生ゴミ以下の生産性や人間関係を放棄したやつでもなんとかなるものなんだな、と実感したのが今年の誕生日だった。
私が今存在する事実として、ロスタイムと称して生きてる日々の面白かったこと、情けないこと、くだらないけどちょっと話したいことを書いていこうと思う。

ちなみに、メンヘラの病みを書き綴っていくつもりはない。そういう時期はとうに過ぎたというぐらい大昔の、まだアルコールが買えない年齢の話ゆえ忘れてしまった。

こういう人間でもわりとなんとかなるわ、という見本にはなりそうだけれど。
全部に意味なんかない、運命とか信じない、そういうひねくれたおばちゃんの備忘録を始めていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?