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ヴィジュアル系の時代精神【エッセイ】

イタリア人として、何が私を日本に近づけたかというと、音楽である。十年前の四月に、ロックに惹かれた十一歳の私は不思議で魅力的な世界に歓迎された。ヴィジュアル系というものを初めて知ったという理由は日本のロックは「ただのロックではない」と言ってばかりいた。当時から、その環境で行き来するバンドをたくさん見てきたので、今年10周年を祝うために、ヴィジュアル系について書きたいと思った。

最近、いくつか現在のヴィジュアル系バンドの活動を目にして、それを90年代とか00年代のV系に比べると、何か違いがあるように感じたが、はっきりとは分からなかった。この文章の中で、その違いを少々考えて、思い付いた質問に答えてみる。ヴィジュアル系の歴史に少し振り返って、どうしてもう二度と当時のような大バンドは登場しないのだろうか?

絶対に非創造的な方法で、定義から始める必要があるけれども、このジャンルをちゃんと定義するのは難しいと言っても過言ではない。名前が仄めかす通り、美意識はとても大切な部分となっている。美意識と言えば、両性具有の風変わりな外観、奇妙な髪型や化粧、型破りの表現法はヴィジュアル系を識別する成分の三つである。初めに、音楽上ダークウェイブとポストパンクに影響を受け、しばらくしてメタルとパンクの痕跡も受け入れ始めた。そして、共通点が文学的な歌詞と妖艶な曲なので、ヴィジュアル系は「ゴスカルチャーの乳兄弟」と言えるだろう。その上、日本文化の要素も含めたりして、このジャンルは間髪入れず、誇りに思うものになった。曲もビデオもどこでも流れていたし、英国の「Top of the Pops」と同様に、テレビ番組でV系アーティストがインタビューされ、演奏したものである。

90年代にはL’arc~en~cielや、Luna Sea、Buck-Tick、Dir en greyといったバンドの結成と主な活動が見られたので、「黄金の時代」に思われている。本当は、その時間を2005年まで伸ばせると言える。なぜかというと、2002年に、初めて知った日本のバンド、今でも愛をこめて応援しているバンド、ガゼットが結成したからである。

それぞれの前述のバンドはこのジャンルの規範を定義したと同時に、それを進化させた。その代表者は、間違いなくラルクだと考えられている。不思議なことに、ラルクは公衆が分かれているほどV系の表象だと言える。彼らをヴィジュアル系バンドとして見なす人もいれば、逆のことを主張する人もいる。実は、彼らの外観が少しだけ切り離されていたのに、90年代のラルクの道をヴィジュアル系としてみなさない理由はないだろう。サウンドも、独特なのに、ポストパンクの影響にまでさかのぼれ、ドラマティックの歌い方も絶妙にヴィジュアル系的である。

私にとって、ディルアングレイのプログレメタルとインダストリアルメタルの転換につれて、ヴィジュアル系の進化のための重要な一歩は2002年にガゼットの誕生であった。
その初期のガゼットの魅了は、若者の鬱憤の表現法。20歳くらいのメンバーは自分の政治的関与を音楽で表した。初期のガゼットは恥知らず日本文化の要素を不遜で取り入れて(代替名は「大日本異端芸者」)、猛烈に現代社会を攻めた。例えば、「DIS」という曲の歌詞は「今こそ立ち上がれ、戦う奴は手をあげろ」や、「平成時代事態変えろ」という非常に反抗的なセリフを含む。
では、その時までガゼットがサウンドでも耽美でも歌詞でもパンクの反逆者と不屈の青少年として現れた一方で、メージャーデビュー曲の「Cassis」は子守歌のように繊細で、まろやかなリズムギターとピアノの7分間のメランコリックなバラード曲であった。美意識なら、ボーカルのルキさんが敬愛していたLuna Seaの解散する前の最後の時代に刺激を得て、バンドの姿も落ち着いた感覚があった。この「Cassis」は、国内でも海外でも画期的なリリースであった。それから翌年には、新しく結成されたヴィジュアル系バンドといくつかの同時代のバンドの両方がこのリードに従い、それぞれが自分らしく革新を続けていった。

分類の話は少し長くなる危険があるので、少しだけ説明する。ヴィジュアル系というのはただ総称なので、「名古屋系」や「オサレ系」や「ネオヴィジュアル系」のように数えきれないサブジャンルが見られることが多い。Dir en greyが代表者であるV系を指すとき、「コテ系」になるとか、Glay
が代表者であるV系は「ソフビ系」(ソフトなヴィジュアル系の省略)とか、ガゼットが代表者である流れは「コテオサ系」などという表現を使うようになった。
現在のところでは、ヴィジュアル系はほとんどアンダーグラウンドになってしまっただけでなく、かつてのバンドを特徴付けた独創性がなくなってしまった気がする。つまり、時代を特徴づける要素がなかなかない。

私の考えでは、ネオヴィジュアル系のミュージシャン自身の音楽に対する態度はかなりアイドルに近い。だが、ヴィジュアル系がアイドルカルチャーに応えて生まれたと考えると、苦笑いするのも当然である。ただし、この態度にもかかわらず、アイドルの声望に決して届かないというのは事実である。そのヴィジュアル系は海外も、特にヨーロッパと東南アジアに届いてきた。
現代ヴィジュアル系は音楽的にも叙情的にも多くの実験を可能にするメタルコアに向かってシフトした一方で、多くの場合に作曲は似ていると言えるだろう。つまり、この作品を際立たせるものは何もない感覚がある。
ヴィジュアル系の元祖のX JAPANが象徴であった衝撃値も、ますます弱くなってきた。過去には、マリスミゼル、桜井敦司、HYDEなどのおかげで、両性具有の姿と微妙な歌詞は有毒な男らしさに反対する革命的な声明であった。

最後に、初めの質問に戻る。どのようにこの点に至ったのだろうか?今のヴィジュアル系は確かにその「オールドスクール」から遠いけれども、全てと同じように進化してき、進化していく。言うまでもなく、各ジャンルは社会の生活と心の悩みに応えて生まれるが、悩み事と社会が変わるにつれて、音楽も変わる。
しかし、この現代のヴィジュアル系に見られることはただその退屈になってしまう非歴史的な要素である。こう述べたからといって、音楽が政治的な声明などを含む必要があると言いたいわけではない。むしろ、音楽が精神と感情を含む限り、歳月と境界を超えるのに十分だろう。個人の精神、時代精神、どちらもいい。でも恐らく、この危機に瀕している社会の鏡かもしれない。それなら、これは時代精神と言えるかもしれない?

とりあえず、我々は取り戻せない日々の懐かしさしか味わえない。

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