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【音楽】ソダ・ステレオ、南米シューゲイザー以上

今日はもう他のストーリーを語りたいと思う。今回は外人として日本音楽現象を解析しないが、外人として全然別の所の音楽の話をしたい。だって、2年前はこのバンドとの出会いを無視したのだが、結局大きな扉を開けて、広い世界を見せたものだ。

個人的な話

今日はもう他のストーリーを語りたいと思う。今回は外人として日本音楽現象を解析しないが、外人として全然別の所の音楽の話をしたい。だって、2年前はこのバンドとの出会いを無視したのだが、結局大きな扉を開けて、広い世界を見せたものだ。
2021年。幸せに思い出せない日々なのに、あの頃アルゼンチン人の同居人がいて、たまに一緒に料理しながら音楽を聴いたりしたのは本当にいい思い出の一つだと言える。5月末、あるいは6月初旬、二人共タンゴという踊りが急に気になってしまったので、少し彼女の国の音楽について調べることにした。「ちょっと待ってね、父さんと母さんに聞くよ」とあの子は言って、タンゴを踊るカップルの動画を見た。もちろん、タンゴはロマンチックだし(タンゴの起源はそんなにロマンチックじゃないとわかったのに)、体と体の触れ合いは魅力的だし、タンゴの雰囲気はほろ苦い憧れを描写するといつも思っていた。
いくつかの動画を見終わったら、ルームメイトのご両親は数え切れないバンド名前を教えてくれた。彼女は「若い時アルゼンチンで何を聴いていたのか」とご両親に問いかけたけど、そんなにたくさんのものなど思わなかった。
色々あったのでとりあえず全部言わないけど、それについての文章は今度のことだと思う。ルームメイトはそれぞれのバンドの名前を読みつつ、その順番で一人一人聴き始めた。しかし、もっとも気になったのは「ソダ·ステレオ」というバンド。名前に何かあると思い、名前だけで特に気になり、すぐにサブスクサービスで保存した。絶対にもっと聴きたいなと思った。最初に「Entre Canibales」という曲に再生ボタンを押した。カレーライスを食べながら、私とルームメイトは顔を見合わせて携帯電話から流れていた音楽を楽しんでいた。
言うまでもなく、ちょうど今文章を書いているなら、自分の人生へのインパクトは衝撃的だった。
六月だったら、あの時音楽を聴く時間なかなか無かった。試験時期だったのものだから、不安とか、勉強のせいで、音楽をちゃんとして集中できなかったのだ。それでも、いつもあの「ロック·ナシオナル」として知られているアルゼンチンロックバンドを考えてばかりいて、何をしても、それと同時に何か聴かなければならなかったという状況になった。
その同じ曲を聴いたら、あの頃の私の気持ちがわかるはずだ。ボーカルとギターのグスターボ·セラティ、ベースのせタ·ボスィオとドラマーのチャーリー·アルベルティに紹介されたのはこんな風だった。そして、あの時から毎日愛が大きくなっている。
しかも、心を打ったもう一つの理由は、歌詞はイタリア人の私にわかりやすいからだ。というのは、意味はもちろん考えさせることがあるけど、言語の障壁なかなかない。(それに加えて、中学校のときスペイン語を勉強したものだ。)
「Entre Canibales」(日本語:人食い同士)は強烈で情熱的な愛をテーマにするし、1990年的なキャッチーなギターもあるだけあって、ソダのもっとも有名な曲だと言える。そればかりでなく、セラティ氏の深くて滑らかな声は心を突き刺さり、脈に入り、身体を全体流れる。
セラティ氏の歌詞には生の感傷、薄められていない情熱で人間関係を語る。セラティ氏を中心にする文章を書こうと思うから、とりあえず彼のことだけに集中はしない。でも、セラティ氏はソダの心臓、肺臓だったというのは事実だ。

振り返り

ソダ·ステレオの歴史を少しだけ振り返って、セラティ氏とボシオ氏は80年代の始まりにキュアーとポリースに影響を受けて、一緒に音楽をやりはじめた。実に、三人目のアルベルティ氏を見つけた時、彼も同じバンドをコピーしたり影響を受けたりしたので、なかなか驚いて、追加せざるを得なかったとセラティ氏は言った。
1982年。アルゼンチンとイギリスに関わったマルビナス諸島紛争の年。アルゼンチンの歴史にまだ治っていない傷、それに軍事独裁政治の長い時期。マルビナス諸島紛争の影響で、英語は禁止されてしまった。ビートルズのレコードタイトルは全てスペイン語に訳されたり、ラジオ放送局はラテン音楽しか流さなかったりした状況だったので、スペイン語での音楽(南米をかけて、スペインを含め)は流行る機会だった。
ある日、アルゼンチン人の彼氏と話して、彼は面白いことを言った。「他の人はアメリカに向かって目を掛けた一方、セラティ氏はヨーロッパを贔屓にした。」やっぱり、ソダ·ステレオの音楽に耳を澄まさなくても、すぐにキュアー、スミス、デュラン·デュランとデペッシュ·モードの影響に気付く。しかも、見た目も間違いなくポストパンクに見える。アイライナーとアイシャドウ、パーマした髪型も。

デビューから1980年代の終わり

デビューアルバムの「ソダ·ステレオ」(1984年)を聴くと、「流石に80年代の作品じゃない?」と思うしかない。シンセサイザーは優勢で、ベースラインはスミスのに聞こえる。歌詞上、このデビューアルバムにセラティ氏はテレビと最近現れてきたショービジネスとその浅薄さを皮肉を通して判断する。
言うまでもなく、ソダのデビューは大成功。さらに、この音楽ムーブメントがイギリス自体で具体化されていると同時に。地球の裏側で。
それから、1980年代の終わりまで、ソダ·ステレオは独特のポストパンクサウンドの豊かさを最後まで探る。セカンドアルバムの「Nada Personal」(日本語の「悪気はない」に近い表現)を通して、ギターとベースの重要性が高めるだけでなく、セラティ氏は自分の声の表現的な素質がわかったりして、1988年の「Doble Vida」(「二重生活」)は熟したソダ·ステレオを紹介する。ニューヨークで録音されて、洗練されたアルバムの感じがある。
そして···1990年があった。全てが変わった時。

1990年代の革命


ソダ·ステレオはもうアルゼンチンの一番大きいバンドの一つだったけど、さらにもっと大きくなっていった。「Cancion Animal」(「動物的歌」)が発売されたとき、南米音楽世界はショックを受けたと言うのは過言ではない。実験的で、アバンギャルドなアルバムだったわけではなく(実際にそんなに実験的ではない)、誰もが南米のバンドにこんなに90年代のロック流行を予想するアルバムなど期待できなかった。だから実験的ではないけど、革命的な作品だと思う。セラティ氏の役割はバンドの中、かなりもっと重要になったということもあった。音楽がどこに向かうかわかっていたので、ラテンロックの傑作になった「Cancion Animal」にその彼の思い付いた音楽進化を取り入れた。でもこう言って、セラティ氏はただ傾向を追いかけたといいたいわけではない。逆に、彼がいつもしたことは、周りから影響を受けて、ひらめきで自分なりに全てを解釈したものだ。ジャンル以上、流行以上、同年輩の人がやっていたこと以上、セラティ氏はいつも非常に遠視のある人だっただけに、自分の感性で世界の音楽界の経験を作り直すことができた。
本当は、そのセラティ氏の実験的な側面がソロキャリアで眩くなるほど明らかになってしまう。これをテーマにして次回の文章を詳しく書く予定なので、心配することはない。
とりあえず、ソダ·ステレオとの道だけを解析しても、「Cancion Animal」の重要さがわかる。セラティ氏の声はいつにも増して深くて豊かで、ベースは脈と一つになっただけでなく、ギターは主人公になった。アクスティックとエレクトリックギターは歌の全ての要素を指導した。全ての要素をひとつにまとめる。
新しい十年代になったら、音楽はどう進むのだろう、どこに向かっていくだろう。「Cancion Animal」は同時に80年代と来たる90年代のギターロックの雰囲気をまとめるアルバムに知られている、南米だけでなく、世界中で。無意識のうちに、セラティ氏は英国でブラーのやることを予想したと言える。すると、ブリットポップを具体化した要素を使っている名作が生まれた。Coldplayのクリス·マーティンさえがアルゼンチンのライブで「De Musica Ligera」という「Cancion Animal」の一曲を何回かカバーしたほど有力な作品。
···じゃ、それで?

「Dynamo」と先見の明

「Cancion Animal」みたいな成功の後、何をしたらいいのか。大成功のすぐ後の一歩は一番難しいと言えるが、正しい答えなんてありはしないかもしれない。
1992年に、セラティ氏の天才の先導に従って、ソダ·ステレオは「Dynamo」を出した。「Dynamo」が「Cancion Animal」と全く別のことになったというのは非常に控えめな表現。だからこそ、前のアルバムに比べると成功はしなかった。しかし、バンドは南米の残りの国々(特にペルーとチリ)でのツアーは上手くいったので、この結果をなかなか気にしなかった。
実に、「Dynamo」にはシューゲイズ、ドリームポップとグランジの影響が強く感じられ、この発見した楽器の潜在能力を引き出して素晴らしく、懐かしいメロディを生み出す。ギターのディストーションは「Loveless」ほど強烈じゃないけど、最初にセラティ氏の声は楽器の海に沈んだ感覚がある。ペールセインツの味わいさえもある作品だと思う。「Luna Roja」という曲の幻想的な雰囲気と「Ameba」の声とエフェクターの混ぜ方はシューゲイズに近い感性を表す。
また、この全ては「Loveless」の一年後、と「Souvlaki」の一年前。地球の裏側で。
「Dynamo」が思えるように成功しなかったのに、ソダはもう「国のバンド」になった、国家全体の誇りのものみたいに。彼らが成功より、自分らしくヨーロッパ音楽を参考にしつつ、個人的な解釈を出す意思があったと感じられる。
その上、「Dynamo」が発売された時、南米に広く普及したのはラテン音楽とラテンやフォークミュージックの要素を含めたバンド、オーケストラ、グループとアーティストだったと言う必要がある。これは、セラティ氏はよく知っていたのに、確実な成功の代わりに、危なく、聞いたことがないシューゲイズの道の方に従うことにした。今だけ少し再認識されていて、「Dynamo」はただずっと時代を先取りした作品に認められる。
「Dynamo」の後、1995年の「Sueno Stereo」(「ステレオ夢」)が来た、バンドとして最後のスタジオアルバム。「Dynamo」で試してみたことを忘れずに、バンドは90年代の半分ぐらいのサウンドを取り入れ、オルターナティブに向かうと言える。
だからこそ、現在ものすごいアルバムとして知られている。アルゼンチンをはじめ、南米のすべてに大切にされて、愛されている曲に構成されたから、みんなにいい「さようなら」に認められている作品。偉いバンドのほろ苦い送別。

まとめ

では、どうしてソダのストーリーをこんな風に語りたかったのかと自問したら、人生を変えた壮大な作品を他人にも聞いてほしいだけからと答える。他人にも、もう一つの地球の裏側にいる他人にも、「Dynamo」の多層な複雑さがわかってほしいと思う、90年代の始まりと終わりのサウンドを含めるアルバムの価値と思い付いた天才の精神を少しだけ伝えたかっただけ。以下は紹介のプレイリスト、何かを聞きたくなったら、どうぞ。


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