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くっさぁ…❤️

哲学って面白いの?面白くないの?という問いにはこう答えるしかないだろう。「つまらないですよ」、と。それを無理に面白くする必要があるのだろうか。いや、寧ろ学問というのはどうしようもなくつまらないものだったではないか。もし駅のホームでつまらない哲学書を読んでいる女子中学生を見たら気が狂ってしまうだろう。それはまるで黛冬優子がちんぽを「くっさぁ…❤️」と言いながらも嗅いでしまうように。冬優子は臭いのが分かっていながら嗅ぐことを止められないのだ。哲学とはつまらないものである、それをあるがままに肯定するとはつまり臭いちんぽを愛する冬優子になる(痴を愛する)ことなのだ。


方法論というものは時代に囚われている。紙がなかった時代に本という発想はなく、カメラがなかった時代に写真という発想はなく、インターネットがなかった時代にウェブという発想がなかったように。新しい手段というものが新しい媒体であるならば、それは技術革新の問題であり、哲学の問題ではない。


そもそも哲学の始まりはタレスとなっているが、これはタレスが世界で初めて論理的思考によって諸現象を説明しようとしたらではない。アリストテレスがそう定義したからそうなったのである。アリストテレスは過去の人物から自身にとっての哲学的要素を抜き出し体系化していったが、これこそまさに形而上学(メタフィジカ)ではなかったか。


パステルより繊細で(絵画的技法)

モノクロームより純粋で(写真・映画的技法)

プリズムより多彩で(デジタルイラスト的技法)

それぞれに偏在する少女のカケラ=クオリアを集め、現象学的還元をすること。世界に希望を見せたい、シャボン玉の夢は眠らない。それは誰のでもない瞬間を新しく記していく限りにおいて。

光空記録

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