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年季のはいった村上春樹読みから、年季をはがす。

8:30 am. 雨が降っている。部屋にけている芍薬が美しい。

さっきから雨が、天井の板をポツポツと鳴らしているように聞こえてならない。そんなわけ、ないんだろうけど。

雨粒がじかに天井を打っているとしたら、それはもう「雨漏り」だ。たいへんだ。

僕は天井裏にしだいに雨が溜まっていくのを想像する。おそろしい。
そのうちに天井のどこか弱いところから雨が浸みだす。おそろしい妄想。

ところで、昨日の夜に急に思い立って『ヒロアカ』を読み始めた。16巻だ。僕にはまだ手付かずの沃野よくや、読んでいない数十巻分がある。

で、読んでいる時の僕の内部体験が今までとどこか違うことに気づいた。

ストーリーは、とある襲撃現場というか、ターゲットのアジトに潜入してからの展開なんだけども、話そのものはゆっくり進む。

僕は16巻を読むのは二度目というか、縫物ぬいものの「返し縫い」のようにして(違うか?)、最後に読んだ巻をもう一度読み直して流れを思い出す。一気読みする人はやらないやり方なんだろうけど、中断につぐ中断の僕はこうやって忘れたことを思い出さないと入っていけない。日本史とかも、これくらい緻密にやってればな~、といつも思うんだけど。

それはともかく、今回、物語内の時間の進みかたがゆっくりに感じられて不思議だった。書いてあることを一つずつちゃんと味わえている感じ。ストーリーの展開そのものは、どっちかというと、どうでもよくて、ずっとそこへ浸っていたい気分だった。

これまで十数巻を読んできて、こういう感覚になったことはなかった。

僕は村上春樹の小説がすきで、どれも読んでいるのだが、彼の小説にはある意味変に慣れていて、正確には、慣れている気になって、ざっと読んでいるかもしれない。今、このことに気づいた。

たとえば『街とその不確かな壁』を、僕は「懐かしいあの感じな」という先入観で読んでいたのだ。僕と村上春樹との間に共通の了解があって、それを確認するために読む。

もったいないことだ。

村上春樹の小説を、僕はざっと読んでいる。悪いことじゃない。だけどもっととどまるように読めたら、また別の時間が過ごせるはずなのだ。村上春樹が僕との間にした約束など、一つもないところから読んでみたらば。つうか、約束とかないんだよ、ほんとは。

で、ヒロアカだ。

何だろうな? 実のところ、セリフの含意が多いんだよね。そこを汲んでいこうとすると、ゆっくりになる。

吹き出し一つに書いてあるセリフの向こうにある意味というか、まあ、含意、コノテーション。それが急に立ち上がり始めたのだ。一個ずつ開けていると時間がかかるというわけだ。

悪くない。おもしろい。ヒロアカすげぇ。つうか、世の小学生もこんなで方を? どうだろね。

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