「脳から血が出そうな情動シミュレーション」だって?
「小さなことを楽しむ人」さんが、自分は本を読むときに抽象化を働かせているのだが、それだと(当たり前だけども)、型にはまった結論を引き出してしまう。そういうようなことを書いておられた。
それはそうですよね、本質を引き出すための抽象化だから。
小さなことを楽しむ人さんは、ここで限界を感じて、全く逆のアプローチを試してみようとした。
つまり、他人が認識している世界を、一番具体的でベタなレベルで体験してみるとどうだろう? と考えてみた。ここで、ふろむだ氏の「脳から血が出そうな情動シミュレーション」が浮上してくる。
ところで僕は考え込んでしまった。果たして自分は脳から血が出るほどに小説世界の住人たちと同期しているか? と。
いや、全然そうでもないな。というのが僕の正直な感想で、そこまで入り込まずに、さらっと読んでいる。
で、僕にとって驚きだったことがあって、僕は何かを読むときに、自分の感情の方を味わっていたのだ。
つまり、小説内の人々が感じていることよりも、僕自身がそこへ入り込んで居合わせた時に感じるもろもろ。そっちへ焦点が合っていたのだ。
間違った読み方とか、そういうことではもちろんないだろう。ただ、これって、考えてみたら割とよそよそしい読み方だよな。それに、あんまり成長も期待できないし。
そういうことに思い至って、ちょっと慄然とした。
小さなことを楽しむ人さんも書いておられたけれど、抽象化の癖はなかなか手強いと。僕も小説を読みながら、「これって、結局、こうだよね?」っつう抽象化っぽいことをやってるんだと思う。とてもよそよそしい。
で、よそよそしくしておきたいのには、多分、いくつか理由がある。
いくつかあるけども、それこそ抽象的な言葉でさっと言っておくなら、恐怖。こわい感じ。どっかへのめり込んでしまうのが怖い感じ。
だから、よそよそしくしておく。でもそれじゃ、あまりに貧しい。
では今日、僕が何かを読むとき、「本の内容が自分の内臓に突き刺さり、大出血を起こしながら、死闘を行うような読み方」になるように、わざと仕向けることは、出来ると思う。
抽象化への欲にあらがって。僕じしんの感情はひとまず措いといて。
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