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THE CHATSUBO PEOPLE

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Chatsuboに出入りする、都市遊泳者たちのつぶやき。街のあちこちで、彼らの眼が風景を鮮やかに切り取る。敷衍された《俳句》としての、140文字のつぶやき、ともう少し長いスケッチ。
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マックにて。ノーパソを開きつつ、手元のスマフォをフリップしている女性。60歳くらい。眼鏡をかけて、ショートカット。柔らかなオノ・ヨーコといった風貌。彼女がもし小説を書いているのだったら、楽しいな、と思った。どんな小説を書いているんですか?とたずねることができたら、もっと楽しい。

フォークナーが魅力的だ。茶色い馬。石炭。猟犬。棺。拳銃。ウィスキー。軍人。図書館。コンデンス・ミルクの缶詰。彩度が高い。1世紀も2世紀も前の出来事が語られているのだが、純度の高い尖ったurbanityを感じる。LOEWEのCM世界と似ている。禍々しく、取りつく島のないところが。

ナイトウィザードというTRPGの世界がナボコフ的だ。システム、世界設定ともに極めて豊饒。マクロ方向な壮大さとしては、数の単位で恒河沙、阿僧祇・・・と来たあたりでSFじみてくる、あの感じ。ミクロ方向にも緻密さが極められている。特殊×特殊でキューっと焦点が絞られる。脳から汗が出る。

小説を書く時に、三人称の視点でキャラクターの内面を描くの、どうやるんだっけ?と今更ながら疑問に思った。例えば村上春樹はどう書いているだろう?『ハナレイ・ベイ』をめくってみる。いつの間にか読んでる。『独立器官』をあたる。また没頭している。形式がどうなっているのか気にする間もなく。

人に花をもらうのはうれしい。バラと千日紅とマリーゴールドと、もう一つ名前のわからない白いふわふわした花が2種類。頂いた時に暑さでくったりし始めていたのだが、水切りして、紙に包んでしばらく立てておいたら、ぱりっと復活してくれた。ガラスの花瓶に活ける。蜷川実花っぽくあだっぽい彩度。

毎日書く #03-2 アルジズと「プラムとイノシシ」

真夏になる前。 まだ畑へ出ても汗をかかずに済んだころ。 イノシシ除けのフェンスが縦横に巡らされている一角に、古いプラムの木がある。 老木と言っていい、古い幹。 曲がった枝が撓んで、ちょうど手の届くところへ実を付けている。 甘い香りが猛烈にかおる。 甘い。 すでにたくさんの実が熟し、落ち、朽ちかけ、猛然と香りを放っている。 それから、ちょうどいい具合に熟れている実。 ちょうどよさがあまりにも完璧で、おそろしくさえある。 畏怖の気持ちが沸き起こる。 傷一つなく、ぱりりとふく

毎日書く #03 through the senses

僕がフェイ・フューの内部世界を漂っていたときのこと。 フェイの内部で何度も会った、あの四角いオブジェクト。真四角じゃなかったかもしれない。 ゆがんだ四角かもしれなかったけど。 そういう幾何学的なものがたくさん浮かんでいるのを僕は目にした。 それらは動いていたと思う。 僕は流れに逆らって漂っていた。 というか、僕も、流れていた。逆流と逆流どうしが、どうにかしてすれ違っていたんだ。 蜜豆の缶詰に入っている、ピンクや緑の色の付いた寒天。 あれに似た色合い。 というか、蜜豆の

美術館は、京都になくても京都のようにして人に魔法をかけてくる。カフェで2000円、ミュージアムショップで5000円使ってもいいと思わせる。概ね女子向けな世界だと思っていたが、今日は一人で2万円分くらい図録や関連グッズを買っている男の人を見かけた。彼の場合は要るから買う的な潔さ。

江戸後期の浮世絵師、落合芳幾と月岡芳年を特集した「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」展を観た。浮世絵世界では、人々の表情は一律にぺらっとした記号である。なのにカッコいい。おびただしく描きこまれたディテール。そして、なによりあの容赦ない「血みどろ」よ!江戸パンクだ!

ピンチョンの『重力の虹』(佐藤良明訳)がどこを読んでも面白い。映像的で、脈絡なく乱暴に、衒学的。これは何に似ているかと言うと、ちょっと学のある高校生が授業で習ったことを織り込んで喋り、まわりがそれを混ぜっ返し、話がどこまでも神学的に続く・・・のを楽しんでいるというあの感じ。

〈fungible〉という単語の空気感がすきだ。NFTのFの部分。代替可能という意味。fragileとか、tangibleとかもいい。いずれも、ラテン語由来で、後半でほろほろっと崩れ落ちるような感じがする。stray kids のMVもそんな感じ。崩れ落ちては、代替される香気。

千葉雅也の『エレクトリック』がカッコいい。

千葉雅也の『エレクトリック』がよかった。 以下は、わたくしアルジズによる、極私的誤読的レヴュー。ネタバレの心配はありません。 作品は、主人公の高校生「達也」の視点によって、宇都宮の街をタルっと切り取っていくわけですが、なぜだか、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』っぽい神学的語りとして読めてしまう。どこもかしこも、猥雑で笑える場面のはずだけど、なぜか神々しい。 例えば、次のようなところに、わたしは神学っぽいキラキラした感じを受け取ります。 聖書に出てくるような感じの、シ

千葉雅也のように、無意識で、無意識を、書く。

千葉雅也が「無意識で書く」ことについて記事を書いている。 ここでの「無意識で」というのは、「万年筆で」とか、「ポメラで」とか、そういうツールを指しているように響く。おもしろい。 「ヒプノティックにトランスした状態になって書く」というのとは多分、違う。 千葉は次のように書いている。 このパラグラフにはとても励まされた! どうしてかと言うと、ちょうど昨日、わたしもそのようなことを念頭において小説の1シーンを書いたからだ。 作家であるFHという人物が、他者に自分の無意識領域

フォーカシングで書く。

フォーカシングという技法をご存じですか? 僕なりのやり方を大ざっぱに説明すると、自分の〈体感/ felt sense〉にフォーカスを当てて、その体感が話したがっていることに耳を傾ける。そういうイメージです。 僕が今までに読んだフォーカシング関連書籍は以下のとおり。 何かを書く時って、自分の中にあるものを表現しようとしているわけですが、同時に、ものすごい力でそれを阻もうとする何ものかがあることに、僕は長い間気づいていながら、無視ってこともないのですが、ほったらかしていたん