「数字の42を気にする」に激しく同意。

 みなさんは、何げなく自分がすることや、考えること思うことで、
なぜ私はそれをするのかな、なぜそう考えるのかなと思う事ありませんか?

 ただ、考えてもうまく言い表せなくて、それを放置したまま、いつの間にかそれ自体を忘れている時に、何かの機会にそれを、自分以外の誰かが説明してくれたり、その理由が本に書いてあるのを見つけると、

わが意を得たり!」って、嬉しくなりますよね。
若い子だと「それな!」のほうが、しっくりくるのかな…

 今回、私が「わが意を得たり!」と思ったのが、星野源さんのラジオです。今回といっても5月の話ですが。

 細かい内容は違っているかもしれませんが、以下の内容でした。

① まずリスナーさんから、好きなシャワーの温度について聞かれた質問に
  対して、ゲストの山岸聖太さんは42度と答えたのに対し、星野さん
  は43度と答える。
② その理由が、42(度)は「死に」に連想されるからという理由。
③ その理由に対して、山岸さんから、「そんな事を気にしてるのか、
  死ぬというのがそんなに怖いのか?」とつっこまれる
④ 「思わない(死ぬと思うのかに対して)、なんかそれを気にする自分
  が嫌だ。42を見た時に「うっ」となる自分が嫌だと答える。

 私も、ロッカーや部屋番号の数字は、できるだけ4や9を避けるし、
冗談だとしても、死ぬとか殺すという言葉は言わないようにしています。(今回のこの文だけでもちょっと怖い)

 ただ、それって、その言葉を使うと本当に死ぬという迷信を信じているのとは、ちょっと違うんだよなぁと思っていたんですよね。

 それで、今回このラジオを聞いて、
その数字(言葉)を見たり聞いたりした時に、自分がいちいち、この数字(言葉)に対してネガティブな感情を抱いていると気づくのが嫌なんだ!
ということがわかりました。

 その数字(言葉)を見るまでは現実に何も起こっていないのに、それを
見たことで、芋づる式にネガティブな感情が沸き上がって不安にかられる
こと。そう思ってしまう自分自身に気づいてしまう事。それが嫌なのか!

 自分の輪郭のない気持ちや考えを、代弁してもらえてすっきりしました。さらに、それが自分だけではないことがわかって嬉しかったです。

 余談ですが、
私は、星野源さんが好きなのですが、その理由のひとつが、
この、いい意味で、他の人が「どうでもいいと思っている事」、そもそも「気にもしていない事」に対して疑問を持って、世の中がそうだからで済まさずに、それを変えていこう(実際変えている)とするところです。


※ 追記
  25_illustさんのイラストをお借りしました。ありがとうございます。





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