見出し画像

安倍晋三と安重根 ~犯罪による社会革新~<在日韓国人の視点>

中国で暴動を起こす
ウイグル族やチベット族。

日本でカウンターに
立ち上がった在日コリアン。

社会体制をひっくり返そうとする事が
罪とされるのは仕方が無いのかもしれませんが、
彼らには彼らの言い分があって
人権を求めているのです。

経済分析が
マクロとミクロの両面から為されるように

犯罪分析もマクロとミクロの両面から
為されなければならない。

犯罪をミクロで考察するなら
犯罪者個人の歴史や思想に
フォーカスする必要があるだろう。

一方、マクロで考察するなら
フォーカスすべき対象は社会となる。

犯罪をマクロ的に考えるなら
「犯罪とは社会に対する警告である」と
言えるのではないだろうか?

社会を革新するためのトリガーを
歴史が必要とする。

そして、ある人物に天命が下る。

天命が下った人物が
たまたま犯罪を実行したに過ぎない。

その犯罪は
社会の革新に必要な行動であり、

もし彼が平穏な生活を選んだとしても
別の誰かに天命が下り
その犯罪は決行されていた事だろう。

幕末に現れた英傑たち。

例えば西郷がいなかったら
明治維新は無かったと言えるか?

或いは桂がいなかった場合はどうか?
または坂本がいなかったら?

いずれにしても
明治維新は成し遂げられた事だろう。

ある人物が平穏な生活を選んだとしても
別の誰かによって決行されたに違いない。

変わるのは実行者に過ぎず
勃発する社会革新は必然である。

そして
坂本など多くの志士が
指名手配犯だったように

社会革新を成し遂げる犯罪は
未来によって正当化される。

レーニンやカストロの犯罪が正当化され
むしろ讃えられるのは
成功したからである。

そう

必然的に発生する社会革新のため
転換期を作り出す存在としての
犯罪者と殉難者を共に歴史が必要としていた。

天が一人を選んで
罪を実行させたに過ぎないのなら、

どうして彼個人を責めることが
出来るだろうか?

否、正確に言えば
もちろん彼は「現在」における責任を
厳しく追及されねばならない。

たとえ彼の主観において
より良き未来を創造するために
どうしても必要な行動だったのだとしても
それは変わらない。

ただ犯罪とは社会現象であり、
個人の責任を超えたものであると私は感じている。

責任が問われるべきなのは個人ではない。
「日本」という社会の方である。

これは歴史が転換期を欲し
変革を望んだ結果に過ぎない。

悲しいことだが、
日々の安寧に甘んじている大衆は
歴史を俯瞰して見ることは無い。

人々の意識を変えるトリガーは
多くの場合、犯罪である。

例えば社会革新のため
どうしても流血が避けられないケースがある。

それは戦争であり、革命であり、
クーデターと呼ばれる事もある。

社会革新のために必要であれば
本来は罪となる殺人ですら
「正しい戦争」として歴史によって正当化されてきた。

現在の日本を支配するのは
「現代社会を常識とする」大衆に過ぎない。

しかし未来を支配するのは
天命が下った側の人間かもしれない。

天命を受けし者たちは捕えられ、
虫ケラとして蔑まれる。

されど彼らは未来の支配者である。
未来の貴族である。

これから日本国家によって行われる
彼への裁判は茶番に過ぎない。

裁判とは
現在の社会秩序を維持するための
儀式に過ぎない。

彼は日本の社会秩序に挑戦した。
その一事を以って彼は罰せられる。

裁判が正しく人を裁くのでは無い。

裁判は
現社会の維持の為に人を裁くに過ぎない。

ミクロの視点では
彼は1人の犯罪者に過ぎない。

されどマクロの観点では
日本社会に対して警告を発した
ゲームチェンジャーである。

日本社会は変わらざるを得ない。
どこかで変わらない限り
同じことが何度でも起こりうるのではないだろうか?


この記事が参加している募集

最後までお読みくださって本当にありがとうございました。