花枝さん Ep6 Who is it
花枝さん(仮名)67歳(本当は72歳)は私の職場におられる現役最年長パートタイマーだ。
私の会社の仕事は全員がユニフォームを着て仕事をする。だから普段の姿というか、どんな身なりなのかを知る人は意外に少ない。これは皆さん方も同感だと思うが、例の感染症のせいでマスクをずっとしてたから素顔を知らない人も多い。
パートタイマーの場合は勤務時間が人によって違うので私服姿なんていうのは全く知らない人も多い。
私と花枝さんも勤務時間帯が若干違うので、通勤で一緒になって挨拶をするということは少ない。今回はそんな中での話である。その数少ない出来事のなかでも花枝さんは花枝さんであった。
ある日の朝、私は区役所にどうしても行かないといけない用事があっていつもより遅い出勤時間で電車に乗った。通勤時間帯はとうに過ぎているので車内は空いている。私はたくさん空いている長いシートの真ん中に座り、文庫本でも読もうかなとバックの中をゴソゴソと探っていた。その時、誰かの視線を感じるような気がした。今、思えばということだけれど、あの時の感は小動物が天敵に襲われそうになった時に危険を察知する野生の感だったような気がする。
まあそれはともかくそんな感じがして顔をあげ、席の前や横を見渡すが別に何もないし知った人は当然にいない。私は首を傾げながらの約15分ほどの乗車時間を過ごす。
目的の駅についてホームに降り立ち、『さあ、今日も頑張るか』と背筋を少し伸ばした時にさっきの感じは消えていた。改札へ向かうべくホームから下りるエスカレータに歩を向けた時、後ろから声を掛けられた。
「イヌヅカさん」
ドキッとして後ろを振り向くとそこには花枝さんがいた。私はこう見えても(どう見えるも何も読んでくださる方は知らないであろうが)怖がりでびっくりしいである。思わず『うわっ』と言ってしまった。あの花枝さんにである。
「おはよう、アナータ、何よ、そんなにびっくりしなくてもいいじゃないの ハホホ」(ハホホはシリーズ既出であるが、笑っていると読んでいただきたい)
「すんません。いや、びっくりして、いや、まさか、花枝さんにあうとは思わんかったんで、すんません」
私は顔が熱くなるのを感じていた。別に恋をしているわけではない。
「電車乗っていたの見てたのよ」
「えっ、花枝さん、いてました?」
「隣の車両に私、乗っていたのよ」
あの感じは隣の車両から覗かれていたからか…… 気付かなかったそれは。
花枝さん恐るべし。
「アナータ、今日は遅いじゃないの。どうしたの」
「ちょっと区役所に用事があって」
「そうなのね」
私達はエスカレータに乗りながら話を続けた。
「花枝さんは今日は? この時間からなんですか」
「そう。いつもよりちょっと遅めだけど」
「そうなんですね」
「そう…… 」
いつもの『間』である。会話が無い。話したくないのかな…… と思ってたらエスカレータが降り切って、二人は一気に改札を出る。
花枝さんはグレーっぽいジャケットにアイボリーのパンツ、お弁当とかを入れていると思われる大きめのトートバックは何かのロゴが書いてある。髪はダークブラウンに綺麗に染めておられて、なかなか若々しいいで立ちである。
仕事中には見ない姿。『花枝さん、結構おしゃれですね』とか言うべきなのか。いや、結構というのは失礼か。『お歳のわりには』は絶対にいかんよな…… 『いつもお若いですね~』も嫌味ぽいかな? とか考えながら暫く無言で一緒に歩いていた。会社までは徒歩10分弱。そこそこ歩く。
繰り返すが、恋人とか、初めてのデートとかいう類の男子の思考ではない。場をどうつなぐかという、いわば処世術の類である。
「イヌヅカさん」
「はい」
「…………」
「はい?」
なんだ?なんだ?また、間が。
「明日天気悪いわよ」
「はい? ああ、そうなんですか」
「傘持ってきなさいよ」
「ああ、はい……」
男女の会話は難しい。
「そう言えば、花枝さんと朝、こうやって一緒になるなんて初めてですね」
私はなんとかこの状況を打破しようと取り敢えず口を開く。
「私ね」
「はい」
「…………」
ここで間をとるなー!!と思いながら速足になりそうなのを抑え、必死で花枝さんの歩くペースに合わせている。
「昔、松原智恵子に似ていると言われたことあるのよ」
「はい??」
「知ってる?」
「えーっと」
私は花枝さんの会話のふり幅に全然追いつけず、知っている筈の松原智恵子さんの顔も思い浮かばない。焦る…… 落ち着け。
「若いときだからね、若い時、こんなおばさんになっちゃったらみんな同じよね、ハホホ」
滝のような汗が流れるのがわかる。なんで仕事前にこんなに汗をかくのだ。
松原智恵子、松原智恵子、思い出せ、知ってるだろう? どんな顔だった? なぜ出てこない? 小学校とかで急に先生にあてられて、わかっている答えが出てこない。そういうのが結構長く続いた感じがした。そしてやっと顔が浮かぶ。ああ、あの人やんか。
「ああ、面影というか、感じ、似てますよ。綺麗な人ですよね。あー花枝さん相当モテたでしょ? もう男の人からのお誘い断るの、大変だったんじゃないですか?」
やった! 突破口を見つけた! 私は花枝さんの自慢話の一つでも聞けるかと彼女をみた。
「今日の午後便、荷物多いから、伝票のチェックしっかりしなさいよ」
「え、あ、はい」
気付いた時には会社の通用口の前であった。私はこんな歳になっても会話の一つも盛り上げられないのかと気を落としながら、セキュリティカードをリーダーに読ませた。
その日の午後の事である。
私よりは随分若いけど、それなりの女性社員の一人が私を見つけて近寄ってきた。
「イヌヅカさん、今朝、花枝さんと一緒やったんやて?」
「えっ、あー、はい、一緒になりましたよ」
「花枝さん、自慢してたよ」
「えっ?なにが?」
「似てる言うたんでしょ?」
「なにが?」
「花枝さん、松原智恵子に似てるって…… 花枝さん喜んでしもて…… やるね~イヌヅカさんも」
「・・・・・・」
花枝さん、恐るべしである。
確かに似てらっしゃるかもしれない。若い時に似てるのなら、そりゃモテモテやったでしょうね。
Paul McCartney & Wings - My Love (Official Music Video)
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