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オリジナル短編小説 【空へ】

作:USA弁護士
ココナラ:
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○月○日 

都会の喧騒に身を委ねる土曜の朝が好きだ。頬を撫ぜる風に生まれたての夏が仄かに甘く薫る、こんな季節は特に。光踊る季節が再び到来した。ラテを片手に、外を彩る世界へと窓越しに視線を泳がせる。大道芸人よろしくギターをつまびき弾き語りをする青年。ベビーカーを覗き込み、相好を崩す母親。軽やかなパンプスの踵の音色を響かせるかのように闊歩するアフロヘアの女性。談笑の渦の中でVサインを掲げ自撮りの世界に浸る高校生グループ。多彩な顔、顔、顔。随所で織り成される人間模様。それぞれの夏が時を刻んでいる。無数の物語を散りばめた渋谷が好きだ。ガラス越しに降り注ぐ光を浴び、モザイクの街をすっぽりと覆い込む空を眩しげに仰ぐ。

エスプレッソの匂いの中、一枚の写真が脳裏を掠める。記憶にまとわりついて離れない、セピアがかった写真。それを、心の中で光にかざす。その瞬間、色褪せた世界が鮮やかな色彩を帯び始める。静止した人物や時間に息が吹き込まれる。一人の飛行士が無造作にポケットに手を突っ込んで佇む。猛々しい意志を湛える瞳は、真っ直ぐに正面を見据える。そして、執拗にまとわりつく喧騒から体を引き剥がすかのように身を翻し、飛行機に乗り込む。空への旅立ちを急ぐ背。未来へと続く滑走路。この記憶の断片は何だろう。ふいに顔を覗かせては、私の心を波立たせる。電車の轟音を背景に遮断機の前で自転車を停める時。夜更けのアパートで民事訴訟法の問題集と格闘する時。エスプレッソの匂いに包まれ、スクランブル交差点を軸に拡がる混沌とした大都会を眺める時。日常のここそこで、ふと顔を覗かせる。

この断片は、心優しい。日常の重みにたじろぎ、大袈裟に溜息をついてみせたりする私のささくれだった心に、ささやかな温もりを運んでくれる。その温もりは切ない余韻さえ残し、胸を刺す。この記憶の断片を、私は無意識のうちにポケットの奥にしまい込み、後生大事に持ち歩き続けてきたのだろうか。きっと、そうだろう。


○月○日

懐かしい顔たちが、写真の中から語りかける。ポストに届けられた航空便。母校が卒業生に定期的に送る機関誌だ。「同窓生の近況報告」というページを凝視する。ニック・ブラムリーは企業法務部に転職。シーラ・メイナードは移民法事務所を独立開業。それぞれの主人公が創り上げた物語が、行間に見え隠れする。

キャンパスを闊歩していた日々は、色褪せたジーンズにTシャツが彼らの、そして私の定番スタイルだった。百科事典のごとく厚い判例集を幾つも詰め込んだバックパックを背負う法学生は、お洒落どころではない。機能一辺倒のいでたちで教室と教室の間を往復し、放課後には図書館に篭る。機関誌では、怒涛の日々を共に疾走した同窓生たちが、心なしか窮屈そうなスーツ姿で微笑む。それぞれに、高層ビルの瀟酒なオフィスでクライアントと会議をしたり、法廷で議論を展開したりしているのだろうか。彼らの世界には属さない自分への苛立ちが募る。


○月○日

拓司の顔を思い出した。大学の先輩だった拓司。駅ビルの書店で待ち合わせをし、隣の喫茶店で紅茶片手に青っぽい人生論を語り合ったりもした。「長いつき合いだよね。そろそろ落ち着いても…。」大学を卒業して6年目、私が広告代理店の仕事を続けるべきか悩んでいた時、彼が言いかけた。川べりの道をあるいていた初秋の夕暮れ時。「私、子どもが大嫌いなの。」淡々と私は告げた。無言のまま二人は歩き続けた。

さらさらと季節は流れた。ロースクールへの入学願書を見せた時、拓司は顔を歪めた。それより早く家庭を持とう。お互い三十に手が届くんだよ。彼は静かに言った。国際企業法の弁護士になり、大手事務所でキャリアを築きたい。その切望で私は胸を焦がしていた。拓司の瞳がなじるように、そして少し哀しげに私を凝視していた。

風に晩秋の憂いが帯び始めた頃、二人は別れた。一緒になれば、それなりに幸せな生活を送っていたかもしれない。一度は銀行に勤めたが、地位だの安定だのを惜し気もなく手放すように、福祉という地道な業界へと方向転換をした拓司。実直な彼らしいと周囲は口を揃えた。数年後、拓司は同じように福祉事務所に勤める女性と結婚した。二人は、幼な子の手をひいて動物園へと繰り出すような週末の昼下がりを満喫しているかもしれない。


○月○日  

眩しい色彩を放つ街。渋谷の雑踏に身を沈めたくて、夏空の下、目的もないままに、そぞろ歩く。スクランブル交差点界隈に、前と同じ弾き語りの青年がいる。今日も、遠ざかった青春を彷彿とさせるメロディを奏でている。

再び記憶が疼く。想い出に閉じ込められたモノクロームの世界が鮮やかな色彩を帯び始め、静止した人物や時間に息が吹き込まれる。脳裏に映し出されるシーン。大空の遊泳を終え飛行機を降りた青年が、地を踏み締める。その瞬間、彼を目がけて一直線に駆け出す人、人、人。「人の海に溺れる!」その恐怖が、飛行士の体を突き抜けた。幾千にのぼる人、人、人。闇を照らす灯の中、彼らは全速力で駆け寄ってくる。狂ったかのように絶叫しながら。その声が無数の層を織り成し耳を刺す。ああ、押し寄せる波に呑まれる!彼はそう思った。瞬時に体が宙に舞う。そして彼は、夜をあざむく巨大な星に吸い込まれていく。


○月○日

哀しき非正規労働者。自虐的な笑みを浮かべる。職業名を聞かれたら、そう答えよう。(所詮、派遣労働者なんだよ、私は。法律とは名ばかりでさ、弁護士事務所で「事務兼受付兼翻訳」みたいな役目を担ったりさ。)三十代も半ばが見えてくると、そんなものかもしれない。「まだ結婚しないの?」 「子どもは欲しくないの?」折にふれ、そんな疑問がやんわりと投げかけられる。「あのう、私、子ども大嫌いなんです」そう飾らない言葉で答えようものなら、結婚できない女の負け惜しみだと冷笑されるだろうか。

私はロースクールの3年間を駆け抜けた。だが、卒業時には身も心も憔悴しきっていた。法曹界を志す自信を喪失していた。他の卒業生が司法試験制覇をめざし勉強に没頭する中、挫折して帰国したのを皮切りに、派遣社員としての生活が幕を切った。昨日と変わらない今日を、どこか投げやりに生きている。主婦か、キャリアウーマンか。女性誌で性懲りもなく取り上げられる二者択一のテーマ。そして、私はどっちつかずのまま、宙ぶらりん。立ちすくんだり、唇を噛んだり、相変わらず不器用な旅を続けている。


○月○日

窓から差し込む朝陽の中で目覚めた。まどろみながら、思う。今日は、仕事がない。明日も、それからも。憔悴しきった体を床に横たえたまま、再び目を閉じる。頭をもたげる罪悪感を抑え込むかのように、二度寝の贅沢を貪る。

「事務兼受付兼翻訳」の仕事に終止符を打った。アメリカに戻る決意をした。法学生時代の知人が、彼女の自宅の一室に2か月ほど居候してもよいと申し出てくれたのだ。年明けに海を渡り、2月の司法試験に挑む。内面での試行錯誤を重ねた挙句、やはり私は法律から離れられないのだと気づいた。だから、立ち上がって歩き始める。

だが、今は机上に山積みとなった問題集の類を視界に入れたくない。ただ、二度寝の贅沢を満喫したい。

日常のささやかな幸福感を掻き乱すかのように、一枚の写真が浮かび上がる。

記憶の奥底に沈ませた映像が浮かび上がる。クラブ活動を休んで早く帰宅した私は、居間のソファに身を沈め漫画本を読み耽っていた。そんな時、日常の風景を引き裂くように、ベルの音が耳を突き刺す。至福の時間を遮断した突然の訪問者。本に顔を埋めたまま侵入者が退散するのを待ち構えた。だが、執拗にベルは鳴り続ける。苛立ちに眉をひそめ受話器に手を伸ばす。気がつくとベランダで洗濯物を干していた筈の母が背後に立ち、肩越しに私の手から強引に受話器をわし掴みにした。「もしもし。」母の甘い声に14歳の私は、瞬時にして「女」を嗅ぎ取った。それはあまりにも「女」の声だった。耳を塞ぎたい衝動にかられた。ひとしきりの会話が終わり、母は受話器を置いた。「奥田さんから。」振り向くと、訊かれもしないのに、二十年来の女友達の名を口走った。だが受話器から漏れた声は、まぎれもなく異性のものだった。哀しい嘘が嘘であると、目前で漫画本に目を落とした我が子が気づいているとは、想像もしていない。

母と私の関係は、それまでも乾いたものだった。だが、その日を境に、関係が更に変化したような気がする。週末には日がな一日テレビの前で過ごす父が母と交わす会話は、最小限に限られた。買い物だかランチだか、外出のたびに母は鏡台に貼りつくようにして、まつ毛の一本一本を丹念にマスカラで覆う。その背中を目のあたりにする午後は、父の肩をそっと抱いてやりたい衝動にかられた。「奥田さんと出かけてくるね。」ひとつ、またひとつ。ぽろぽろと溢れ落ちる嘘。母の一挙一動に敏感過ぎる反応を示す自分にたじろぎ、研ぎ澄まされた感覚に嫌悪を募らせた。「私は子どもを持たない。」日記にそう書く夜が幾つもあった。夕餉の白い湯気の中で、エプロンの裾を引っ張る我が子に微笑みかける姿など、想像もできない。心で叫び声を上げた。

両親が離婚した16歳の秋、私は父と暮らし始めた。再婚し遠地に移り住んだ母と会うこともないまま、無表情に歳月が過ぎた。大学を卒業した年、父は心筋梗塞で亡くなり、私は独り暮らしを始めた。少女の中で「母」が「女」になった午後。あの記憶の断片。流れる歳月を経て、もう激しい感情に衝き動かされることはない。それでも折にふれて幻影のように浮かび上がる。この記憶の断片を、棄ててしまい。「えいやっ」とばかりに、ポーンと空高く放り投げたい。その瞬間に視界に現れる風景は清々しいものだろうに。

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