見出し画像

自己愛性パーソナリティー障害の母との関係



時系列

私が子どもの頃は、母が大好きでした。私には姉がいて、ふつうに育ってきたと思います。

ところが、最近姉と振り返ってみると、母はネグレクトだったことが判明しました。家庭のことは、それが当たり前だったので気づきにくいです。

小学生の頃、算数や理科の成績が悪かったこともあって、外出禁止令が出て、監視されたこともありますが、母も自分の仕事(ピアノ教室)で忙しかったので、それほど違和感を感じず過ごしました。

しかし、平日の夜、母はほとんど家にいませんでした。

実家は、父親不在の機能不全の家庭だったと思います。また、私には思春期というものがあまりなかった。生意気な口を利くのは、母というより、友達や学校の先生との付き合いの中に限定していました。

母や父に反抗したことがないので、自立に憧れながらも、自立できない。断りたいのに断れない。そんな日々でした。

20歳頃になると、母親の態度が次第に支配的になり、それから29歳で結婚するまでの間、知らず知らずのうちに、ものすごく病んでいきました。

23歳で就職する時 
せっかく実家から通えない距離の会社に内定したのに、週末ピアノを教えるために帰宅しなさいと言われ、しぶしぶ了承。
共依存でした。
会社でモラハラ気味の上司と交際します。良いのはじめだけで、その間の付き合いや、その上司が二股交際で、後から知り合った女性と結婚することになり、社内での排除が始まりました。が、私はボロボロになりながらも、徹底抗戦して、その上司は最終的に会社を辞めることになりました。

27歳 今の主人とお見合いパーティーで知り合い、交際。たまたま次男だったことで、母を喜ばせます。

29歳で結婚
結婚式前日に、酔っぱらった母から「裏切者」と言われる。

31歳 夫の会社の移転で他県に引っ越す。
母のピアノ教室はやめることができましたが、母の手は緩まず、電話攻撃や、私を攻撃することが起こります。私は初めて母に自分の意見を言いつつも、不定愁訴や病気を発症します。パニック障害、メニエール、頭痛(閃輝暗点)、そして不妊治療が苦痛だった時期です。

34歳 パートで働き始めることになる。
当時住んでいたマンションではピアノの仕事が出来ず、パートで働くようになります。パート先の仕事場で一緒に働く人が、母のような人、疲弊しました。長く続いて1年、比較的居心地のいい職場で2年半。人間関係の破綻でやめることになります。最後の2つは、良好な人間関係を構築した上でやめられました。

41歳頃、母がケガをしたのを機に母のピアノ教室を手伝うことを再開します。

42歳の時、父が亡くなる。今の自宅の土地を両親が購入してくれ、家を建てることになる。

父が亡くなってから、母は滅茶苦茶に荒れだします。そこで、私は母のピアノ教室から撤退することを決め、今に至ります。

それ以降、私の地を足につけた活動が始まりました。

自分の罪悪感を見つめ直す

私が母との関係で悩んだ最大の理由は、ずばり、罪悪感です。

モラハラ被害者の方は、多かれ少なかれ「罪悪感」や「自分の不十分さ」を感じていると思います。

努力をしなきゃいけない、努力さえすれば・・・という焦りにも似たことがいつもつきまとっていました。

それがモラハラ加害者のエサになるのです。

モラハラ被害者になやりすい人は、モラルや常識、愛というものを感覚的に重視しています。

被害者になりやすい人は、そのことを

・モラルがない
・それは常識ではない
・それは愛情ではない

と言われるような行為にたいして、

それではいけない、これは間違っている 

という思いを持ちやすいのです。

そしてそれらができていないことを自己愛性パーソナリティー障害者に指摘されると、

「自分には努力が足りない」

と思ってしまう傾向があります。

私は、小学校や中学校の成績は中の下ぐらいだったと思います。私は音楽は得意で、ピアノの道に進みました。大学は作曲科に進み、勉強は本当に楽しかったです。少し努力をすれば優秀になれ、私にも母を喜ばすことができることを初めて知りました。すると、優秀であることに価値を見出すようになってしまいました。

就活は、難関倍率を突破しました。母は私が家から出ることは予想外でしたが、就職してからや結婚してからは、努力ではどうにもならないことがでてきました。職場では、私より優秀な人がたくさんいました。努力してもできないことがままありました。結婚したらすぐ子どもができると思っていましたが、できない。努力して出来ないことがあることが受け入れられなくて、とても苦しかったのです。

そして実家の継承問題もありました。私の父の兄弟がすべて亡くなり、実家の姉妹のうち一人または二人が実家の名前を継がなければいけないと母にいつも言われてきました。私の結婚式の前日に「裏切者」と言われたのも、そのせいだったと思いますが、その後も何度として、姓を変える話を母からされました。

罪悪感の正体

私の努力が足りない、と私はずっと悩んできました。
きちんとした思春期を通っておらず、母に反抗することがありませんでした。そのため、思春期の時期が30歳過ぎにやってきて、ひどく悩むようになり、病気になってしまったのです。

私の罪悪感の正体は「母を助けてあげられない」ことだったと思います。

母が言っていることをもっともだ、と思うことはなかったけれど、母と娘という関係の中で、母が周りのことに文句を言い、誰のせいだ、これのせいだと環境のせいにしてきたのを聞いて、私はとても苦しかったのです。

そして、文句を言い続ける母を「助けたい」という思うようになり、何度も助けようとしてきました。でも、母は、それに満足することは一切ありませんでした。

母を助けなければいけない・・・を放棄した日

ある時、思いました。助けようとしてきたけど、お手上げ。
私が母を変えることはできない。母とは離れよう。

離れてからは、とても楽になりました。

そして、離れてからは、

母の問題は母が自分で解決すべきこと。私とは関係ない。

と思うようになったのです。

しかし、母との対峙で、母からされたイヤなことは、私の精神とむしばみました。のちに、自分の人間関係やわが子との関係に影響を与えていることをNLPによって、自分の歪んだ投影によって知ることになりました。

自分が押さえつけて見ないようにしていた(抑圧していた)感情を、ほかの人やわが子に映して見ていたのです。

今も母は健在で、相変わらずモラハラをしています。

・私の気持ちに共感できない
・自分がいつも優秀で正しい

以前ならば、私は母と絶縁したいと考えていました。しかし母は依存傾向が多く、何かといえば頼ってきます。縁を切れる距離ほど遠くでもありません。私の価値観が、人と調和を望んでいるので、「嫌」と断固拒否することがあまり得意ではないんですね。なんだかんだ言いながら、なあなあになってきたとも言えますが、私が母と付き合えているのは、私自身が母にたいする「罪悪感」がなくなったからです。

母は83歳ですが、モラハラは残念ながら治りません。本人が自覚していません。母に限っていえば、とても不安感の強い人です。

そんな母にもいいところもあるなと少しは思うようになりました。(母が少し弱ってきたせいかもしれません。)

問題も、最近は少なくなったと感じます。しかし、それは私が母と離れて暮らしているからであり、同居している姉からすると、それなりに問題は日常的に起こっているようです。

つい先日も、母がまた私に問題をふってきました。私がとっさに、「母にどうしたいのか聞いてみよう」と思った時、

母のふるまいが記憶に上りました。

・意見がコロコロ変わる

です。母には自分というものがありません。母の意見がコロコロ変わることで、人間関係が翻弄されていきます。特に母は「お金」を使って人を翻弄することが多いのです。財力があるがゆえに、お金で人はどうにでもなる、と思っているかのようです。

母の思考(防衛機制)から発生した問題が多く、その度に人間関係がゆさぶられます。

罪悪感は自分を苦しめることに気づく

罪悪感は、モラハラ加害者のエサになるものであると同時に、自分を苦しめるものです。

例えば私なら、自分を出さなければ、家族が平和になる、と思い込んでいたために、自分のやりたいことをしないできました。

私はピアノ指導者で、ピアノ教室ができない時期がありました。本当はピアノ教室をやりたい。だけど、環境がない。そして、やっていける自信がない。と思っていました。

その自信がないのを隠すために、ピアノ指導者のためのサークルを主宰していた時期がありました。そのサークルをやっていた経験を全否定するわけではないけれど、元の理由はそうだったのです。

自分に嘘をついていると、やはり、どこかで苦しくなっていきます。自分の家ではできないから、嫌だけど、母の教室に2時間かけて通勤するという、そういう、ちょっと変なことが起こってきます。

母が常に私に言っていたこと

・子どもがいない女性は女性としては未完成
・母のピアノ教室を継がなければいけない
・実家の姓を継がなければいけない

これらに、いつもプレッシャーをかけられて、本当に苦しかったのです。

母がこれらを執拗に言い続けてきたのは、一人では不安だからという表れだと思います。一人では立っていられない人です。自分が頼りにならないからこそ、こうした確たるものにこだわるのだと思います。

子ども(母にとっては孫)ができても、母はまるで変わっていません。子どものうちどちらかが継いでくれたらいい・・・と言っています。それに対して具体的な手順は何も指し示してはいないのです。言っているだけで母は具体的な行動が伴っていない。

今の私からすると、それはかつての強制する母ではなく、母が淡い期待を吐露しているようにしか見えないのです。つまり私が、背負っていた十字架はなくなり、私は今のままの自分でいい、と思えるようになったからだと思います。今の私の立場で、できることを考えればいい、と思います。

当時の私は、自分がやっていないことに罪悪感をもちやすく、その罪悪感のために、もっと頑張らなければ!と思っていました。自分がどのように頑張っても結局、母を救うことはできなかったのを思い出しました。

モラハラ被害から抜け出すには、自分の「罪悪感」に気づき、この罪悪感が何の経験の、どんな感情からきているのか気づき、理解し、この言葉にならない感情を手放すことができたら、モラハラ被害者としてではなく、大人としての自分を育てていけると思っています。

よろしければサポートをお願いします。サポートいただいたお金はクリエイターとしての活動につなげていきます。