2024/01/27

今日は土曜日で、世間は休日ムードが漂っていた。うちの塾は土曜日が授業日なので、毎週休日ムードのなか仕事に向かうのだけど、少しの絶望感と、休みボケしてる世間に対してマウントをとって気持ちよくなる感じが入り混じって、どっちつかずで、空中に浮かんだような気持ちになる。

休日の電車では楽器を背負っている人をよく見るのだけど、仲間を見つけた感じがして嬉しい。そういえばツイッターで「日本のジャズ界はもっと敷居を下げてプレイヤーを増やすべきだというけど、プレイヤーは腐るほどいる。むしろ増やすべきはライブに来てくれるリスナーだ!」みたいな意見があったことを思い出した。

卒業旅行でヨーロッパに行ったとき、まちなかの教会の目の前で大声で歌っている人や、電車の中で急にセッションを始める人、地下鉄の駅構内でアンプを通してギターを弾いている人など、音楽が日常の中に溢れていた。単なるBGMではない、生身の人間が作り出す、生の音だった。身体性を伴った、実体を持った音楽だった。音楽が日常に根付いている。これはその国や地域の文化であって、歴史であって、途方もなく長い時間の積み重ねであって、それらは現代の日本で生きてきたぼくにとって驚くべき光景だった。日本でそんなことやったら警察に指導されて撤退だろうなあと思いながら見ていた。

長い時間の積み重ね、歴史の厚み、文化の醸成、そういったものを徹底的に排除してきた現代の日本において、ジャズが、音楽が日常に根付くことはあるのだろうか。

それはプレイヤーを増やせとか、リスナーを増やすべきだとか、そういうマーケティングの問題なんかじゃない。文化と歴史の問題だ。

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