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オタマジャクシのこと

カエルの中でもアマガエルが好きだった。
中学生の頃、庭の水道のそばに住み着いていたアマガエルの「おばあちゃんガエル」と、よく会話を楽しんでいた。
彼女は外灯に群がる虫を求めて壁によじ登り、いつもグレーっぽい保護色をしていた。
「もうすぐ雨が降るよ」
そんな声が聞こえた気がすると、やがて雨が降りだしたことがあった。
 
カエル好きの私は、もちろんオタマジャクシも大好きだった。
中学生になっても、オタマジャクシがかわいくて、捕りに行きたくてたまらなかった。
飼って、あの音符が泳ぐ姿や、手足の出る様子を眺めたかった。
 
それでも私も思春期だった。
オタマジャクシを夢中で捕る姿なんて、誰かに見られたら恥ずかしくて学校に行けないと思った。
 
幼稚園や小学校の低学年のころは、田んぼで捕ったオタマジャクシを園や学校に持っていったことがあった。
先生や、クラスの子たちのほとんどに喜ばれ、地味な私がそのときだけはヒーローになれた。
 
だけど、中学生にもなってオタマジャクシはマズイ、それはわかった。
そこで中学3年の春、黄昏に身を隠しながら、犬の散歩のフリをして田んぼに向かった。
レジ袋でそれをごっそりつかみ、持ち帰った。
たしか、田んぼの水があまりなくて、オタマジャクシたちが「ほぼ泥」の上にかたまっていたのだと記憶している。
 
そんな最悪の環境だったから、捕まえても生き残ったのはごくわずかだった。
たくさんの死骸を庭に埋めるのは、いろいろな意味でキツかった。
それを最後になんとなく、オタマジャクシを捕まえることを封印した。
 
おしゃべりなおばあちゃんガエルも、いつの間にかいなくなってしまった。
実のところ、ここ数年はカエルへの情熱がさほどでもなくなり、カエルグッズを集めることもやめている。
これはオタマジャクシがカエルになるように、私もオトナになったということなのか?
それでもこうして書いてみると、やっぱりオタマジャクシを飼いたくなる。
真っ黒くてとっても小さな、しっぽをひらひらさせて泳ぐ、ヒキガエルの子どもがいい。
 
あの頃お世話になっていた田んぼはもう、住宅街になってしまった。
私がカエルグッズに冷めてしまったように、世の中もまた変わるのだ。
だからオタマジャクシを捕まえるなら、ほんのちょっぴり自転車を走らせて、別の田んぼへ行かなければならない。
 
今宵もカエルの合唱が、静かな町に響いている。
騒音と捉えるか、風物詩と捉えるか、それは個人の自由だけれど。
小さな命を慈しむ気持ちは、未来永劫、人々が持ち続けるべきものだろう。
 
遠くから聴こえるカエルたちの求愛の声は、いつまでもつづく。
耳をすませていると、なぜだかあの頃に帰れそうな気がしてくる。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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