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私小説【弟】

14歳の時に母が、18歳の時に父が他界して以来、私と5つ下の弟はこの敷地面積500坪の大邸宅で二人暮らしをしています。33歳と28歳の働き盛りのふたりですから、週に数回はお手伝いさんに入っていただいています。お料理やお掃除をしてくださるのは「初音さん」という24歳の女性です、重たいものを運ぶときなどは別のサービス会社から「律さん」という私と同い年の男性が来てくださいます。そのほかにも我が家に出入りするのは弟のバイオリンの先生である「江畑先生」この方は、ウィーンの大学で学んでいますから信頼のできる先生ですし、ご主人とよくアンサンブルコンサートを開催しておられますから私も時々はお招きいただきます。私は絵画を趣味としていますので、絵画の先生である「修司さん」も時々にいらっしゃいます。先生と敬称をつけないのは、お恥ずかしい話ですが、私の以前の恋人なのです。

弟の名前は「みなと」といいます。

両親が熱心なクリスチャンでしたから姉の私が「あめの」そして弟が「みなと」、つまりは「天の港」、天国を意味するのです。

母は気の弱い人でした。いつも儚げで苦しそうで、その中に不思議な喜びに満ちた人でした。この喜びの正体を母は終生、私に教えてはくれませんでした。すべてを燃やし尽くしてしまうような陽炎の出た夕暮れ時に、母は首を吊って自殺しました。

「これ以上好きな人を思うよりは地獄の業火に落とされたい」。

そう便せんに走り書きしてあったと、弟が教えてくれました。私はその手紙を見たこともありません。

父は強い人でした。ひとり娘の私が幼稚園の頃いじめられていたとうわさで聞いたとき、父はその子供を危うく殺してしまうところでした。財力も権力もある人です、その非情さにだれひとり文句を言う者はおりませんでした。

12月23日、「ホリデーがきたね」と喜んでいた父。

翌、24日の朝に自慢のイングリッシュガーデンの雪の中で真っ赤な血しぶきを散らして亡くなっていました。

当時のお手伝いさんは遺体の第一発見者です。彼女は私に「旦那様は殺されたんです」と顔面蒼白で耳打ちしましたが、事件性はなく自殺であると警察からも弟からも私は説明を受けました。そのお手伝いさんも、ほどなくして、我が家に来なくなりました。

休日はいつも共に過ごすようにしています。両親が亡くなってからというもの、あの子は決まって金曜の夜になるとお漏らしをしてしまいますから、共に寝てやるのです。13歳から28歳になった今までこの夜尿症は治りません。金曜日は父と母が亡くなった曜日でもあり、何の因果かイエスキリストが十字架につけられた曜日でもあり、そして私が生まれた曜日でもあるのです。

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