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底無し沼の太陽

 「悪いことは楽しい、でしょ?」その誘い文句に目を見張った。遅れて、やっぱりね、と安堵のようなものを覚える。やっぱり、私たちはそういう人種なのだ。
 きっと私たちは変われない。去年の夏から続くこの物語は、ずっと互いの流れを汲んでいる。互いのせいで今がある。

 待ち合わせはこのあたりでは比較的大きい連絡駅の北改札口。柱のかげから白い横顔が覗いているのが見えた。足音に気がついたのか、声をかけるより先にこっちを振り返って「おう」と頷く。
 3ヶ月ぶりといったところだろうか。LINEをブロックしたことを詰られたので「先にブロックしてきたのはそっちでしょ」と指摘すると「手が当たっただけ」と言い訳をしてくる。もちろん嘘だ。嘘八百。
 この男の言うことを間に受けてはいけない。実際、彼の話は6割以上聞いていない。残りの4割も話半分に聞いている。彼の言う「おれなんもしてない」は大抵「軽い気持ちで言い寄ったけど相手の子が重くなって面倒だから放置してる」だし、彼の言う「忘れた」は大体「覚えてるけど覚えてるって言ったら調子乗るから忘れたことにしとこう」だ。

 駅から徒歩6分。半歩先を歩く彼について辿りついたそこは、海外のコンドミニアムを彷彿とさせるマンションだった。木のあたたかみを感じさせる広々としたエントランス。立ち込める土の匂いと濡れた木々に彩られた、雨が似合う中庭。エレベーターにはちょっとした腰掛けのようなものまで設置されている。
 部屋へ入ると玄関にはスリッパが二つ丁寧に並べられていた。「スリッパ買ったんだ」と指摘すると「お前のために買ったんじゃないから」と悪態をつくのは相変わらずだ。
 招き入れられたのは真っ白な1Kで、壁も床も白だからダークブラウンで統一された家具が映える。色のこだわりは冷蔵庫やスリッパ、タオルにまで及んでいる。そのセンスはさすがだ。テレビと空気清浄機と扇風機が隅に置かれた生活感のない部屋が彼らしい。

 今回も、始めは勉強用テーブルの前に置かれた椅子に陣取る。彼はベッドに寝転がる。そのまましばらくとりとめのない話をした。
 おもむろに彼が起き上がって、ベッドの上から両手を伸ばす。私も同じように手を伸ばす。あと数センチ。届かない。
 「こっちきて」「そっちがこっち来なよ」「しゃーねーな」なんてやりとりをして指先が触れたところで、ふと喉の渇きに気がついた。
 何か飲みたいと言うと冷蔵庫の前まで案内される。リンゴジュースの紙パックと水のペットボトルが2本。あとは9%の缶チューハイ。味噌なんかの調味料も見えたけれど、一人暮らしの男性の冷蔵庫ってこんなにすっからかんなものなのだろうか。
 「これもあるよ」とリンゴジュースを指差すけれど私は水を取る。お酒も勧められたけど、私は9%の缶チューハイの味が好きじゃない。そう言うと飲めないのだと馬鹿にされた。飲めないのではない。飲みたくないのだ。

 水をコップに入れてテーブルの上に置く。流し込んでいる間にベッドに戻った彼が腕を広げるので仕方なく縁に腰掛けた。それからのことはあまりよく覚えていない。押し倒されたのか、腕の中に引きずりこまれたのか、気がついたらペットボトル1本分の距離に彼の顔があって、冒頭のセリフ。
 「悪いことは楽しい、でしょ?」

 目的はわかっていた。それ以外の目的で呼ばれたのならむしろ不安になる。彼女からの牽制があろうとなかろうと選択も結果も変わらない。連絡を寄越してきた時点でこの人はそういう人間だとわかる。いつぞやのホテルの帰りに「おれ浮気はしない」なんて言ってたけどそんなわけない。
 実際、付き合ってるんでしょ? と問いただすと「それ誰?」と平気な顔で嘯く。好色は治らないんじゃない。治す気がないだけだ。

 彼と会うことで自分の中にどんな感情が生まれるのかを探ろうと思っていたのだが、今回の逢瀬で私を驚かせたのは自分の感情ではなく、彼の肉体のほうだった。人の体はこんなにも熱くなるのだと、彼の全身から発せられる熱を受け止めながら思った。
 肌を伝ってなだれ込む興奮。肩にかかる吐息。絡む指先は火傷するほど熱い。
 別の人の体を覚えたからだろうか、細い腰回りがやけにしっくりとはまる。体つきの好みはもっと本能的なものによるかもしれない。一方で薄明かりに照らされた肩周りは、ひと回りがっしりしたような気がして寂しくなった。
 事が済んだのでそそくさと下着を拾って帰る準備をする。外はすっかり暗くなっていた。何も言わなくても最寄駅まで送ってくれた。

 その日以来、彼の彼女の夢を見るようになった。それは私の罪悪感の表出ではない。夢の中で彼女は私に気まずそうにする。
 彼女は去年の夏に私と彼が一旦不仲になったあとずっと彼の一番近くにいた女の子で、上着の貸し借りやクリスマス前のプレゼント、彼から貰ったというブレスレットをなぜか肌身離さずつけている等様々な要因から彼との仲を疑われていた。彼女にも私に「絶対にない」と言いながら好きになってしまった後ろめたさがあるのだろう。
 彼に本気になるのは正直得策ではない。彼と彼女がどのようにして交際しているのか、私には全く想像がつかない。好色で艶福な男と遠距離恋愛をするのは精神衛生上のリスクがあまりにも高すぎる。一枚の紙切れでさえ大して意味をなさないことが少なくないのに、付き合おうなんて口約束で何を縛ることができるのだろう。
 それでも、商品に気に入らない部分があるのならそもそも買わなければいいとは言えないのが恋の難しいところで、星の数ほど他にもたくさん相手はいる。似たような人やもっと条件のいい人だってわんさかいる。でもこの地球に太陽は一つだけだ。

 彼が優しくてナルシストで寂しがりやで愛されたい可哀想なお子様であることに全ては起因している。彼が好色なのも艶福なのも、結局はそこなのだ。そして執着すればするほど、彼は離れていくだろう。内側に触れようとすればするほど、底無し沼に嵌まるようなものだ。
 私はと言えば、理解することも変えることも既に諦めている。人は勝手に変わる。本人も気がつかないうちに。そして羽織ってみて初めて去年の上着が着られなくなったことに気がつくように、ある時ふとその変化を知るのだ。

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