ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、「新しい古文書学者(『知の考古学』)」について⑥--主体
ドゥルーズは言表における主体を論じる。
文の観点から見ると、〈主体〉は言説を開始する力をもっている。しかし、言表は〈主体〉という唯一の形態とは関係なく、むしろ可変的な内在的位置に関係する(「長いあいだ、私は早くから床についた……」という言説が言語学的人称としての〈私〉にも、作者プルーストにも結びつくように)。内在的位置は〈主体〉の形象という形式に還元されない。むしろ逆に、内在的位置が言表に由来している。こうした位置は〈主体〉の形象ではなく、「誰か(ON)」の様々な様態である。
フーコーも言表に対して超越的な立場をとらない。言表はフーコーに相関的空間の位置の一つを指定する。フーコーの言説がある位置を占めるこうした仕方を、ドゥルーズは感動的だと評している。
フーコーにとって、主体は可能性の深淵ではない。むしろ、言表の効果に過ぎない。
筆者はフーコーの言説の政治的効果が気にかかる。その言説の有利な点を挙げるとしたら、過剰なヒロイズムを抑止するだろう。フーコーの考古学を認めるなら、彼は自ら掲げる責任の根拠をいかなる超越的な審級にも訴えられない。しかし、それは不利な点と表裏一体だと思う。フーコーにおいては、言表が要求する限りの応答する主体が配分されるが、それは政治的主体たりうるのだろうか。ポストモダン状況における政治については、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』が詳しいと思われるが、筆者の力不足でその議論は追えない。当面は「責任」に注目しながら、ドゥルーズの議論を追いたい。
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