ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、「新しい古文書学者(『知の考古学』)」について⑥--主体

ドゥルーズは言表における主体を論じる。

文の観点から見ると、〈主体〉は言説を開始する力をもっている。しかし、言表は〈主体〉という唯一の形態とは関係なく、むしろ可変的な内在的位置に関係する(「長いあいだ、私は早くから床についた……」という言説が言語学的人称としての〈私〉にも、作者プルーストにも結びつくように)。内在的位置は〈主体〉の形象という形式に還元されない。むしろ逆に、内在的位置が言表に由来している。こうした位置は〈主体〉の形象ではなく、「誰か(ON)」の様々な様態である。

文はまさに、いわゆる言表行為の主体に帰着し、この主体は言説を開始する力をもっているように感じられる。〔…〕言表は唯一の形態に関わるものではなく、言表そのものに属する実に可変的な内在的位置に関わるのである。〔…〕「長いあいだ、私は早くから床についた……」。文は同じである。としても、言表は、この文を普通の主体に結びつけるか、あるいは『失われた時を求めて』をこんなふうに始めながらこの文を話者のものとする作者プルーストに結びつけるかによって、同じではなくなる。〔…〕このようなあらゆる位置は、ある一次的な「私」の様々な形象などではなく、言表はそこから派生してくるわけではない。それどころか、こういった位置の方こそ、言表それ自体から派生するもので、この観点からは、このような位置は、ある「非人称」の、ある「彼」の、ある「誰か(ON)」の様々な様態にすぎず〔…〕

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、22-24頁。

フーコーも言表に対して超越的な立場をとらない。言表はフーコーに相関的空間の位置の一つを指定する。フーコーの言説がある位置を占めるこうした仕方を、ドゥルーズは感動的だと評している。 

言表は彼にそのような場所の一つを指定するのだ。そして、フーコーのもっとも感動的な言表とは、おそらくこのようなものである。

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、24頁。

フーコーにとって、主体は可能性の深淵ではない。むしろ、言表の効果に過ぎない。

筆者はフーコーの言説の政治的効果が気にかかる。その言説の有利な点を挙げるとしたら、過剰なヒロイズムを抑止するだろう。フーコーの考古学を認めるなら、彼は自ら掲げる責任の根拠をいかなる超越的な審級にも訴えられない。しかし、それは不利な点と表裏一体だと思う。フーコーにおいては、言表が要求する限りの応答する主体が配分されるが、それは政治的主体たりうるのだろうか。ポストモダン状況における政治については、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』が詳しいと思われるが、筆者の力不足でその議論は追えない。当面は「責任」に注目しながら、ドゥルーズの議論を追いたい。

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