産休14日目
オムライスが私史上最高に上手に巻けたいえーい。
写真は私の分。これより小さく作った息子の分も、大きく作った旦那の分も上手に巻けたいえーい。
好きではないものについて、わざわざ公のSNS上で好きではないと言及する行為について考えたい。
あとは、他の人がお金をかけて行っている行為に対して、お金をかける事を否定することも同じく。
対象がよほど人道に外れた事物や、法に触れる事物でない限り、最も配慮のない行為のうちの一つだと私は思う。
まず断っておきたいのは、これは「嫌い」という感情の否定ではない。
事物に対する「嫌い」という感情は勿論私も持っている。し、立派な関心を表す感情の一つと考える。
ひっかかるのは、その表現の仕方にある。
「〇〇を友達に勧められて観てみたけど、全然良さが分からなくて5分でやめた。」
「わざわざ〇〇にお金をかける意味がわからない、自分でやればよくない?」
こんな、ある日なんの脈絡もなく、誰宛でもなく投稿される文面。今やあまり珍しくもない。が、脈絡もなく誰宛でもない、というところに大きな問題がなかろうか。
前の文であれば勧めてきた友人本人に感想として直接、後の文であればそのサービスを利用している人間と話をしている中で直接、伝えていれば、それは多少の軋轢を産むかもしれないが一つのコミュニケーションとして成り立つ。
お互いが納得するまで嗜好を、価値観を戦わせればよろしい。
しかし、SNSにポンと投げられてしまうと、これは思わぬ、やり場のない負の感情を産みかねないと考える。
「嫌なら見なければいい」は、ブログなら比較的簡単に出来るけれど、タイムライン形式のSNSでは自衛としては弱い。だって流れてくるんだもん。
ある日不意打ちで、SNSの相互フォロー対象という、決して他人とは言い切れない相手が何かを否定しているのを見た時、(これは私の場合だけれど、)否定されている事物に対して少なからず好ましい印象を持っていた際にそんな投稿を見ると、無性に恥ずかしい気持ちになる。好き嫌いは人それぞれであるはずなのに、感性がその人より劣っていると言われているような、そんな感覚。
否定されているサービスの提供を生業としている人の立場に至っては、それは生計を立てる手段や、誇りや、生き甲斐に対する否定にもなりかねない。
その人自体をミュートしてしまうこともできるけど、それは最終手段にしておきたい。でもあまりにそれが続くと、そうせざるを得ないかしらと考えたりして。
昨今問題となっている匿名が故に容易く行われる誹謗中傷ほど過激な問題では決してないかもしれないけれど、何の気無しに否定の言葉を吐き出すその先にある受け手の千差万別な気持ち、立場を、多少なりとも想像する努力は、もう少し皆がしてもいいのではないだろうか。
というか、自分にもあるでしょ、好きなものや、楽しんでいるもの。
それを否定されたらどうかと考えたら一番簡単な気がするけれど。
嫌いな人もいるよねーとサラリと流せる強靭なメンタルな持ち主なのか、(だとしても誰もが自分と同じようなメンタル強者だというスタンスはいけない。)門戸の狭さをアピールすることで自分の感性を上質に見せたいのか、(むしろちょっと卑屈で逆効果に思える。)自分の好きなものは万人に受け入れられると思っているのか、(これは凄い!!)知らないけどさ。
感性や価値観は人の数だけあって然り。私の好きは必ずしもあなたの好きじゃない。これも当然。でも真の多様性は、異なる立場に対する十分な配慮の上に成り立つと思う。
スキに溢れたタイムラインが素敵。
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