シンエヴァと旧劇場版の人間観の違いについて(あと黒波、式波について)

シン・エヴァンゲリオンを見てきた。

迫力ある戦闘シーンなどの見どころもしっかりありつつ、本当にエヴァンゲリオンに決着をつける作品になっていたことに素直に感動した。

しかもこじんまりと風呂敷を畳むのではなく、これでもかと謎概念と謎展開を大量にぶち込み、第3村という世界の広がりも見せた上で、見事にたたみ切ったことが本当に驚きだった。

そういった素朴な感想は置いといて、この記事では旧劇場版までと新劇場版との人間観の変化について、思いついたことをリツコに焦点をあてつつ書いてみたい。


旧劇までの人間観

テレビ版・旧劇では重要だったのに新劇では削られてしまった要素として、リツコたち親子とMAGIのエピソードがある。

MAGIはリツコの母であるナオコが開発した、ネルフ本部の有機スーパーコンピュータだ。
MAGIはメルキオール、バルタザール、カスパーという独立した3つのシステムによって構成される人格移植OSであり、それらには科学者としての自分、母親としての自分、女としての自分という、三つの異なるナオコの思考パターンが移植されているという。
人間が抱える心のジレンマをそのまま残したシステムになっているのだ。

MAGIに関して印象的なのは、敵からハッキングを受けるエピソードだ。
あと少しでMAGIが完全にハッキングされてしまう、残るは女としての思考パターンが反映されているカスパーだけ、という状態からリツコが巻き返し、ハッキングを防ぐ。
このエピソードがわざわざテレビ版と旧劇で繰り返されているのは、女としての自分、つまり性愛に関する部分が人の心の一番重要な部分だと強調するためだろう。

このエピソードは、人間にとって心こそが重要で、その中でも特に性愛に関する部分が人間の本質だという旧劇までの人間観を象徴している。

実際、ナオコやリツコ自身がそういう人として描かれている。
二人ともゲンドウを愛する一人の女として生き、死んでいった。

このような人間観は、テレビ版の後半に進むにつれ強まっていき、旧劇の人類補完計画の描写において頂点に達する。
人々は人の形を無くす最後の瞬間に、自分が愛する人物に性的な意味で受け入れられる幻想を見る。
性愛こそが人間の欠けた心を補完してくれるものだとされているのだ。

その後、物語の展開としては、最終的にシンジは人類補完計画を否定し、拒絶されるかもしれないが、互いに分かり合う希望もある他人と生きる世界を選ぶ。
そして最後はアスカに「気持ち悪い」と拒絶されて幕は閉じる。

旧劇では、個人の心、そして性愛こそが人間にとって重要であり、性愛関係は愛されるか愛されないかどちらかしかないので、人間関係は結局は極端な全面的肯定か全面的否定の二択になってしまう、というようなラディカルな人間観が(作り手の意図はどうあれ、結果的に)示されていたのではないだろうか。

このようなラディカルな人間観に依拠することによってこそ、旧劇という傑作カルトムービーは成立したと言えるかもしれない。


新劇における人間観

では新劇で示された人間観はどのようなものだったか。

まずリツコについて言えば、ゲンドウへの思いやMAGIに関するエピソードは消え、Q以降はゲンドウの元からも離れている。
リツコが女としての自分を優先して生きているままならばゲンドウについていったはずだが、ゲンドウとは対立関係にあり、未練もないようだ。

ではリツコは「女としてのリツコ」ではなく、何になったのか。
マヤからの呼び名が象徴的だ。
「副長先輩」
リツコは副長という肩書で呼ばれている。
リツコはここでは(女でも科学者でもなく)まず第一に組織の一員なのだ。

ここで示されているのは、MAGIに象徴される心のジレンマというモデルから離れた人間観だ。(MAGIには、組織の中の自分や上司である自分といったものは存在しない。)
ここには、心を重視する人間観から、人間関係を重視する人間観への変化が見られる。
言ってみれば、人間の本質は個人の中ではなく、個人と個人の間にあるものとして想定されているのだ。

WILLEの人たちの描かれ方にもそれは表れている。
旧劇では個人の性愛に回収されてしまった上司部下の信頼関係が、そのままきちんと信頼関係として描かれているし、旧劇まではほとんど描かれていなかった日向マコトと青葉シゲルの信頼関係(拳を付き合わせる)なども描かれている。

そして人間関係の中で居場所を得ることが救いとして提示される。
この作品では、人類補完計画のような全面的な承認ではなく、カヲルくんが言うように「居場所と安らぎを得ること」が重要なのだ。

居場所とは性愛関係に限らない。

例えばレイ(いわゆる黒波)は第3村で暮らしていく中で、様々な人と行動を共にすることで居場所を得た。

行動によって築かれる関係は、全面承認か全面拒絶かという極端な二択ではなく、その間にあって、日々変化する動的で複雑なものだろう。

だから、他者とのコミュニケーションのモデルとして示されるふるまいも、首を締める、頬をなでる、「気持ち悪い」と吐き捨てるといった極端なものではなく、食事や仕事を共に行い、挨拶を交わし、手を握るといった日常的なものだった。


余談(黒波=シン・ゴジラ、式波=シン・ウルトラマン説)

余談だが、黒波のエピソードからは、オリジナルじゃなくてもいい、コピーでも生きる中で真実が生まれるというメッセージが伺えるが、これはゴジラやウルトラマンなど既存の作品を再構築している庵野監督の創作論・作品論としても解釈できるだろう。

それを踏まえて思い返してみると、黒波はまさにシン・ゴジラそのものなのではないか。
黒波によってシンジはQでのカヲルの死のショックから立ち直ったわけだが、庵野監督自身もQが終わった後しばらくは全くエヴァンゲリオンにとりかかれなかったが、シン・ゴジラによって立ち直ったととれるコメントをシン・ゴジラ製作発表時にしているからだ。

黒波に初めはきちんとした名前がなく、後からオリジナルと同じ名前(綾波)がつけられるくだりや、最後に白くなるところも、シン・ゴジラでのゴジラが名付けられるくだりや最後に凍結されて若干白くなったことをなぞっていたのではないかと思わせる。

そう考えていくと、式波はシン・ウルトラマンを表しているのかもしれない。わざわざシン・ウルトラマンに配色が近いプラグスーツを着る上に、クライマックスで巨大に変身するからだ。
(見直さないとわからないが、下手すると目から取り出した棒みたいなのを変身アイテムのように掲げて変身ポーズさえとってたんじゃないかとさえ思えてくる。)


まとめ

話を戻すと、性愛をベースに考えることで全面承認か全面拒絶かという極論に陥っていた人間観から、多様な人間関係をベースに考えることでより柔軟で可能性に開かれた人間観へと変化しているということだ。

アスカとシンジの間で「好きだった(今では好きではない)」という言葉が肯定的に交わされるのも象徴的だ。

ここには「好き」でも「気持ち悪い」でもなく、「好きだった」という関係性が描かれている。
好きじゃなくなった人とも性愛以外の関係を築けるし、別の人と新たな関係を築くこともできるということだ。関係をリビルドできる可能性が広がっているのだ。

新劇場版自体がエヴァのやり直し=リビルドだったように、シンジやミサトたちは世界を修復し、リビルドしていくが、それがそのまま人生や人間関係もやり直せるというメッセージになっているようにも思えた。

映画の展開としては最終的に、神に等しい存在となったエヴァに乗るシンジが世界を書き換え、皆を救った後で、神であるエヴァを殺す「神殺し」が行われる(この解釈で合ってるか自信ないけど)。
その時ユイがシンジの身代わりとなり、ゲンドウがユイを支え、二人を槍が貫くが、これはユイが象徴する全面承認もゲンドウが象徴する(していた)全面拒絶も、ともに同時に退けることを表しているようにも見えた。

それがつまりは、母(全面承認)と父(全面拒絶)との葛藤という、観念的な物語だったエヴァンゲリオンを終わらせるということだったのかもしれない。

そしてそのような終わりが可能になったのは、心と個人の性愛を重視した観念的でラディカルな人間観から、関係性を重視した動的で成熟した人間観に変化したからだったのではないか。

ちょっと強引ですが、そんなことを思いました。