日々の雑記、引っ越しの話

 小説を書こうと思って作ったアカウントなのだが、まったくもって思うように進まない。そうこうしているうちに引っ越しをすることになったのでそれにまつわることについてだらだら書いてみようかと思った。

 私にとってはただの引っ越しではなくて、初めての一人暮らしでもある。二十歳をとうに超えているけれどもこれが初めての一人暮らしである。父がいわゆる転勤族というやつで日本中、時には海外などを長年あちこち飛び回っているので、ずっと母と二人で暮らしていた。母が嫌いなわけではない。両親との仲は良いほうだと思う。母をひとりにしてしまうことに抵抗がないわけではない。しかし私はどうしても自分で、自分の力で生活をつくってみたかった。自分で家賃や光熱費を払って、自分で自分のご飯を用意して、自分で洗濯をしたいと思った。だから一人暮らしを始めることにした。
 人と住むというのは実は難しいことだと思う。自分のルールだけではなくて他人のルールと擦り合わせて、妥協して、何かを我慢したりあるいは対話を重ねたりしなければうまくいかなくなって瓦解する。家族だって恋人だって変わらない。自分以外はみんな他人で、それぞれに自我を持っているのだから。

 私が引っ越してきたのは、青梅市というところである。東京の西、奥多摩とか檜原村の手前で、やや北寄りなので埼玉の飯能とかにもまあまあ近い。家の窓から山が見える。「なんで三鷹からそんなところに引っ越すの」というようなことを何人かに聞かれた。三鷹には五年住んだ。新宿まで特快なら十分ちょっと、渋谷まででも二十分弱くらいで行ける。駅周辺には飲食店も多いし、スーパーもたくさんある。隣駅には吉祥寺もあって服も電化製品も化粧品もなんでも買える。便利で住み良い街だと思う。じゃあなぜと聞かれると、簡単に言えば私はもっと静かなところに住みたかった。あるいはもっと人口密度の低いところに。
 私は聴覚過敏という特性を持っている。まあ要するに聴覚が過度に敏感であるという意味である。苦手な音があったりもする。正直それについて懇切丁寧に説明を書き記す気は面倒くさいのであまりない。最低限書いておくとするなら、不思議なことに映画館とか音楽のライブとかは割と平気で、それは恐らく「今から大きい音が鳴るぞ」とある程度想定できて、音が鳴る方向も限定されているからだと思う。では何が困るのかという話だが、わかりやすく言うなら私は学生時代、大講堂とか大教室がすごく苦手だった。授業が始まってしまえばみんな概ね静かに聞いているから良いのだけど、本当に嫌だったのが授業が始まる前に学生たちがあちこちで思い思いに喋っている時間で、だいたいはイヤホンで音楽を聴いたりして気を紛らわせていたけど、具合が悪くなって授業が始まる前に教室を出て行ってしまったことも何度かあった。電車の中とか店とかでもそうなのだけれど、私はいわゆる地獄耳というやつで、周りで他人が喋っていることがものすごく耳に入ってきてしまう。別に聞きたいわけでもないのだけれど、嫌でも聞いてしまうし、それを聞くことに脳のリソースが割かれてしまう。リソースが割かれるとものすごく疲れる。残念ながら自分の意思でコントロールができない。全然知らない人が後ろで喋っていることが耳に入ってきてしまって目の前の友達が喋っていることに集中するのが難しく感じる時すらある。こういうことを書くと「それって発達障害では? 精神科か心療内科に行ったほうがいいと思います」みたいなことを言われそうだが、私はすでに五年以上精神科にかかっていて主治医もいるので大丈夫です。あと、今は耳栓を常備したりして対策している。
 まあそういうわけで、要するに人混みというのが切実に無理なのである。都心はあまりにも音が多すぎる。街頭広告、アドトラック、BGM、駅のアナウンス、話し声、叫び声。人波と雑音に呑み込まれていくような感じがする。ぎゅっと胸が苦しくなって、頭が混乱してくる。この切実さは、そういうのが平気な人に伝えるのは難しいと思う。私の抱えているストレスがどういうもので、どんなふうに困っているか、全然理解できない人もたくさんいると思う。それはそういうものだ、他人だから。(とはいえ、私の苦しみを理解もせずに私の選択を否定されるのはイラッとする。)
 幸い私は普段リモートワークというやつをしていて、月に一度出社するかしないかという感じだし、出社するぞとなっても自分で時間とかスケジュールを調整できるので、会社からちょっと遠くに住んでもなんとかなると思う。それよりは出社以外の日の生活をより快適な、自分が生きやすい形に作り替えてみようと思った。私はもう大人だから、そうやって自分で自分の生活をカスタマイズすることができる。

 青梅市を選んだのは、まあ、のどかで住みやすそうで面白そうな街だなと思ったから。奥多摩の手前というロケーションもなんだかちょうどいい感じがした。ほどよく田舎だけど、山奥というわけでもない。青い梅という名前もとってもかわいい。それときっかけはもうひとつあって、私の大好きな作家の一人に絲山秋子さんという方がいらっしゃるのだけれど、その方が書いた『夢も見ずに眠った。』という長編小説が私は彼女の作品の中では一番好きで、この小説に青梅が出てくる。それでなんとなく、青梅ってどんな街なのかな、と思って調べたのが最初だった。まさか小説に感化されて本当に住むことになるとは思わなかったけれど。

 最近思ったこと。私は東京にだいたい二十年くらいは住んでいる。三鷹の前は荻窪に住んでいた。シティガールなんて大層なことをいうつもりはないけれど、東京に住んでいることの利便性や特権を享受してきた。私のライフスタイルはすっかり東京ナイズドされている。たとえば私がいきなり本当の山奥とかに住もうとしたら苦労すると思う。
 それでも、私はなんとなくずっと東京で、どこかしっくりこない感じ、みたいなものを抱えている気がする。それは私の奥底の部分にずっと、だだっ広い青空と赤土と見渡す限り緑の麦畑と地平線が見える景色が、原風景としてあり続けているからだと思う。
 南米のパラグアイという内陸の国で生まれた。母が日系移民で、彼女は五歳の時に両親に連れられて北海道から移住した。三十年以上を彼女はそこで過ごし、電気の仕事で日本から赴任していた父と出会って私が生まれた。私が小学校に上がる時に生活拠点を日本に移したけれど、その後も度々パラグアイには訪れていた。三〜五歳くらいの頃はアスンシオンという首都の街で、家の庭で優しいシェパードと毎日遊んでいた。(その頃私はものすごい人見知りで、友達といえば犬くらいだった。)麦畑の風景は、アスンシオンから車で六時間くらい行ったところにあるピラポという町で繰り返し見た風景だ。そこは母方の祖父母と親戚たちが住んでいて、母の故郷でもある。赤土まみれになって何にもない風景の中を犬と走り回った。草原の中で牛たちが群れを成しているのを見た。夕日が地平線に沈んでいくのを見た。こぼれ落ちて来そうなほどの満天の星空と南十字星を見た。ほんの幼い頃の記憶だけれど、それは私という人間の核とか土台の部分に刻み込まれているし、死ぬまで消えることはないのだと思う。私は故郷がどこかと聞かれてもよくわからない。しかし恐らくどこよりもいちばん懐かしいと思うのは、あるいは死ぬ前に思い出すのは、荻窪でも三鷹でも早稲田でもなくきっとあの風景だろうと思う。
 だから多分私は根っこが田舎者なのだろう。そんなことを思いつつ、遠くに山を眺めながら段ボールだらけの新居でコンビニのコーヒーを飲む。知らない街でどこか寂しい感じもするけれど、ともかくもここで新しく日常をつくっていくのだ。

 引っ越し祝いは大歓迎です。