トゥルムの真実と不変の真理
真実とは何だろうか?
情報がありふれ、真実が見極め難い世の中になってしまったせいか、真実が簡単には知られてはならない、隠されたものという感覚までするようになったのは気のせいか..
人々は皆、日々何について興味を持ち、情報収集をしているのだろう..
思うに、受け身の情報よりも自発的に得た情報=体験から得た情報が、自身にとっての真実の情報と成り得る気がしている。
人が多く集まる街から、どこか遠く離れた場所に住み、情報をあまり得ず、自分の体験している世界だけを自身の生きる世界とし、その世界が平和だと思えば、その人の描く世界観は平和だろう。
また、現代のテクノロジーに身を任せ、日々情報を得る中で、情報を耳にしても、それをまともに受け止めなければ、それはただ幻影として存在しないものになる。
子供と大人の一番の違いが情報量の違いだとすれば、分別を身につけた子供に、情報さえ与えてあげれば、大人に頼らずとも生きていけるのかもしれない。
とはいっても、どんな天才や知識人、マスターであろうと、未だ人類は、宇宙全体の5%しか知ることができてない、というように、自分たちが見ることのできないもの、ダークマターと、プラズマなどダークエナジーと呼ばれるエネルギーが空間のほとんどをしめるこの宇宙のことは、到底わかれない。人間の頭脳、能力、ミクロの世界についてもまた同じ。
一人間がその儚い人生でキャッチできる物語などたかが知れている。終わりのない探究心。それは時に、自身を苦しめることにもなる。
そんなわけで、未知の宇宙空間、酸素がない異空間に住もうなど考えないほうが幸せなのかもしれない。
自分にとって、コロナになって困ったことは何もなかった、と言えばそれが自分にとっての真実だし、ドラマを作りたければ、それ相当の彩りのある物語として語り継がれる。
人類よ、宇宙を感じ、宇宙的愛にフォーカスを✧
さて、本題に戻り、Tulumの真実について書きたいと思う。
数か月前、Tulumのメインの通りを歩いていて、突然ドイツの記者に質問をしても良いか?と尋ねられたことがあった。
自分は瞬時に、あー、あの事件についてだろうなと思い、ダークな内容は勘弁.. と断ったのだが、もし質問を受けていたら、質問内容は何だったんだろう.. とふと思った。
その事件とは?
Tulumの中心街のレストランで、観光客二人が流れ弾にあたり殺され、三人が怪我を負うという事件が起きた。
そんな事件はここTulumでよく起こるのか?と言えば、Yesとも言えるし、Noとも言える。というのも、六月頃は、一週間に一度くらい、そんな過激な話を耳にしていたので。
久しぶりのニュースだなと思っていたが、今回この事件は世界的にニュースになったと聞く。
事件の次の日、ここに住む西洋人たちは皆、家にこもったというが、コロナよりもマフィアを気にする人々が住む、そんなTulumという街に住んで、2年と4ヶ月が過ぎた。
久しぶりの遠出より
年末にメキシコ南のパレンケで行われたRainbow gatheringに行ってみた。そこでは、色々なワークショップが開かれていたが、Cheating Workshop という不思議なワークショップが、車椅子に乗った、両足に障害のある若者を筆頭に20人ほどの、お金を使わず旅をする若者たちによって開かれていた。
話を聞くところによると、ボランティアなどのエネルギー交換によって生活を成り立たせるのではなく、システムを逆手にとって資金を稼ぐ、または裕福層に直接アプローチをかけると言ったような手段を、彼らは自分たちの体験より共有していた。
彼らの情報が果たして自分の人生にとって役に立つか?といえば、まず役には立たないだろう。彼らの描く世界観、真実と自分の真実の違いは、レインボーというグラデーションのように多様性を見事に表わしている。
Rainbowでは、コミュニティのように輪に入れなければ、出ていくべき.. ということではなく、自分と違った色を受け入れ、レインボーという虹を作り出すことに意味がある。
そこで思うのが、自分の真実として、金銭を返さないエネルギー交換を長らく経験してきたためか、金銭の欠乏が希望の欠乏ではないということ。資金ないことが不幸を招く、といった言葉は自分の世界観においては真実ではなかった。
ところで
真実を英語にすると、Truth だが、真理もTruthと訳される。日本語で、真実とは嘘や偽りのない、人間の手が加えられていないこと。真理とは不変の道理だが、最近自分は、真実ではなく、真理を求めるようになったと気付く。
東北奥地から西に向かうアシタカではないが、曇りなき眼で真実を見るという訓練、メディアを信じることができないのであれば、何が真実かを自身の足を使って出向き、自身の眼で確かめなくてはならない。
高校時代の疑問点
日本は現代において大抵平和なのに、地球上では物質的貧困者の方が多く、どうして争いが続いているのか?という問いを持った。そこから、世界の真実を知りたいというのが、異国を訪れる自分の最大のモチベーションになっていく。
二十年たった今でも、異なったバックグラウンド、文化を持つ人と調和を築き、母国語でない言語での意思疎通をし、自然に接しながら限られた場所を他人と共有して生きる、という日々を確立するジャーニーを続けている。その多くの違いがある中で、調和を感じる時、人類に希望を感じる。
また、最近は訳あって、キューバ人と一か月弱、生活を共にする機会があった。
キューバ難民がフロリダに上陸することができなくなって暫くたつ。そこでメキシコを通って陸路で北米を目指すため、まずはキューバからメキシコにボートで逃れて来たりするわけだが、その道中、つかまった14人などを含む、30人弱の女子たちと共同生活をした。
事情は皆それぞれ。超危険地帯、コロンビア、パナマ間のセルバを7日かけて歩き続けたクバーナや、通常、波が穏やかなら2日でキューバからたどり着くところ、ボートのエンジンが途中で壊れ、6日間、食料、水なしでサメがうようよする海をさまよい、メキシコに到着した、22歳のクバーナもいた。
自分は日本を愛しているので、日本にも住みに戻りたいと思うが、キューバ人のように祖国を離れるという気持ちはどんなものだろう。
キューバには行ったことはないが、深い思い入れはある。
2008年、広島の火をゲバラの娘、アレイダ・ゲバラと共にキューバに届けるという時があり、アレイダに会いに行った。
あの日、午前中はアレイダが持参した、父ゲバラのドキュメンタリーフィルムを見て、半日涙の止まらない時間を過ごし、午後は彼女の話に聞き入った。そして、その日の夜は、ゲバラの妻、アレイダ・マルチの書いた本 Evocacion を一気に読み終えた。
キューバという国を、今ある過度な共産主義状況にした張本人。フィデル・カストロは、638回の暗殺計画をくぐり抜け、ギネスブックにも公式に掲載されている。同志だったチェ・ゲバラは、シークレットで広島を訪れ、祈りを捧げた。
キューバやラテンアメリカの情勢を知り、日本を知る今。
東北大震災後、川内原発をなぜ稼働停止させられなかったのか?
米国の尻に敷かれている日本。原発問題に対して行動を起こしてきた親友には、1960年から続く日米地位協定の決まりごとは、日本の憲法よりも効力があり、多くの署名を集めたとしても、地位協定においてすでに決められている条約(いついつまでは原発を動かさないといけない、というもの)がある限り、問題は解決されないという話だった。
日本は美しいが、今平和が約束された日本に住まない理由があるとすれば、やはり自分は地球をHomeと感じていたいようで、ここに土地を見つけ、家建てるという計画も無きにしも非ずというところだが、未来において、未知の世界に住むというヴィジョンも少なからずあったりする。
ここTulumに住んでいて素晴らしいと思うことの一つに、国際的な場所というだけでなく、それぞれの人たちのバックグラウンドがかなりユニークであるということ。
初めて会って、何人?というお決まりの会話でも、僕はフランス人だよ。けど、生まれも育ちもカメルーンでね、15歳までアフリカにいたんだよ。今まで、4年以上同じ場所に住んだことはなかったんだけど、子供が生まれて、ここに12年居座っているんだ。とかだったり、また別のフランス人の友達は、ガボンに5歳から18歳までいて、メキシコにはとりあえず行ってみようという流れになったんだ、という話を聞いたりする。
国際的な街、Tulumでなくても自分はよくそういう人に会いやすいのかもしれないが、家の近く、地元で知り合ったアメリカ人にストーリーを聞くと、今までに4人の奥さんがいて10人の子供を授かり、メキシコには3年、インドに5年、中国に3年住んだことがあると言う。それも子どもたちと一緒に移動し続けたようで、最終的には日本に15年住んでいるんだとか。だけれど、最初の息子はハンディーキャップがあり、次の息子はヴィクトリアの滝に誤って落ち、亡くなったんだ、といった話を聞くと、やはり、自分がそういう人たちを引き寄せているのかもしれない。が、やはりTulumのカラフルさは群を抜いている。
本当に色々な人が自身のストーリーを語ってくれるが、大切なのはやはり過去ではなく、今。
今、自分は時間をかけ、世界を教室にして周った後、この人だ!!という人に出会えた実感があり、その美しい人間と成長し、共にクリエイトできるこの素晴らしい環境と事実を、自分の真実として生きている。
自分は、この宇宙の神秘をまだ何もわかれていない。もっと知りたいと思う反面、知らないということ、無知であることの良さについても改めて考える。
自分がある程度住んだ場所、西オーストラリアの大自然だったり、イタリアミラノという街だったり、友人が50人はいるであろう、エクアドルの先住民の街だったり、昔から興味を持っている国々、パプアニューギニアやタンザニア、ヒマラヤのことは少し知っているといえるかもしれないが、その他の地域と人々については、全く未知でしかない。
自分は人間性という目には見えないものについて、頗る興味を持っていて、兎にも角にも、色々なことを体験し、自分の人生を彩っているような気がする。
結論
不変の真理はいつの時代も変わらずそこにあり、隠されてなどいない。
また、それぞれの人間の真実は自身の脳が解釈した真実でしかない。
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