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特定の属性(マイノリティ)と犯罪者を同一視することは差別扇動にあたるという話

在日コリアンへの差別扇動の事例から考える問題点

犯罪や窃盗、脱獄して犯人が逃走するといったニュースがあるとき、Twitterの一部では、「それは外国人の仕業ではないのか」「それは在日のせいではないのか」といった根拠のない憶測が多数流れます。
また、台風や地震や洪水、津波等の災害の際も「災害に乗じて〇〇人が窃盗を行っている」「〇〇人が井戸に毒を投げた」「外国人らしき人物が動物園のライオンを逃がした」といったデマが流れます。

事実を知ってしまえば、非常に馬鹿馬鹿しいデマです。
しかし、このニュースを真に受けた一部の人は驚き、「外国人は怖い」「〇〇人は怖い」といった恐怖を覚えるかもしれません。あるいは「彼らは我々にとって恐ろしい存在だから排除してしまおう」と考える人もいるかもしれませんね。犯罪行為を行う者や潜在的犯罪者から自衛するためだと。

「自衛」や「社会秩序」のために特定の属性(マイノリティ)への「恐怖を煽り」、「排除を正当化」する。
そう、これこそが特定の属性(マイノリティ)全体を犯罪者、潜在的犯罪者とすることが悪質かつ典型的な「差別扇動」とされる理由です。

一見もっともらしく、正当性がある理由に見えますが、「犯罪を犯すかもしれないから」と特定の属性を排除することは社会秩序の維持や自衛には繋がりません。むしろ、回り回って自身の身すら危うくするものです。
それは過去にあった関東大震災時の朝鮮人虐殺の事件からみても明らかです。

当時、災害という非常事態の下での恐怖の扇動に人々は影響され、在日コリアンをはじめとする無辜の人々が殺されました。これは差別扇動がジェノサイドに至ったレイシズム(人種差別)の事件です。
「でも犯罪者、潜在的犯罪者とされたのは在日コリアンであって日本人は大丈夫だよね?」と思うかたもいらっしゃるかもしれませんが、違います。日本人も犠牲になっています。

そもそもの話、犯罪者は犯罪を犯さない限り犯罪者にはなりえません。
犯罪者だからこういう姿形であろう、こういう人種であろうということにはなりません。
誰しもが普通に暮らしている人であり、犯罪を犯したら犯罪者になる。それだけの話です。
当然のことながら、犯罪者ないし潜在的犯罪者かどうかといったことは、見た目では分からないし、見分けることは出来ないのです。

だからこそ、関東大震災の朝鮮人虐殺では、在日コリアンのかただけではなく日本人や中国のかたも犠牲になりました。

思いがけない災害を目の当たりにした人々の間で「火災の拡大は朝鮮人が爆弾を投げたからだ」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった悪質なデマが広がったのです。
デマを信じ込んだ人々は各地で武装して「自警団」を結成。朝鮮人や、朝鮮人と誤認された日本人や中国人を殺害しました。警察も数日の間、流言を信じ込んで拡散に加担してしまい、戒厳令で出動した軍もまた、殺害に手を染めました。
殺された朝鮮人の数は不明ですが、数千人に上るともいわれます

(はじめに忙しい人のためにかいつまんで説明|「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか)より

なぜ差別主義者は犯罪と特定の属性を結び付けたがるのか

何故多くの差別者が、差別主義者が特定の属性(マイノリティ)と犯罪者ないし潜在的犯罪者を同一視するかのような主張をするのか。それは、犯罪者は往々にして「社会秩序を維持するために社会から排除ないし隔離されるべき存在」とされてきたからだと私は考えています。
「犯罪者」が量刑に応じて自由を制限されたり、刑務所に隔離を受けることで、社会の秩序は保たれていることは確かにそうですが、それは犯罪者の「行動の自由」「居住の自由」といった人権を制限することで成り立っています。
社会システムがそうなっていると、他者の人権を制限することにあまり頓着しないかもしれませんが、それが犯罪を起こしていないにも関わらず我が身に降りかかったら恐ろしいと思いませんか?
だからこそ犯罪かそうではないかという定義は法律によって具体的に定められているのです。

私たちは「犯罪者」といった言葉の使い方にもっと慎重であることが必要ではないでしょうか。犯罪者を犯したとは限らない相手を「犯罪者」「犯罪者予備軍」と呼んだりしていませんか。警戒は必要なことですが、あえて名誉を傷つけるような、スティグマ的なレッテルを相手に貼る必要があるでしょうか。

気に入らないマイノリティ属性に「犯罪者ないし潜在的犯罪者」のレッテルを貼ってしまえば、その属性を「社会秩序の維持」の名の下に排除したり、人権を制限することがあたかも正当性のある行為に見えてしまいます。差別扇動は「一見正しく見える」形で発露されるのです。

これを読んでいる貴方がもしそのような主張を見聞きしたら、まず疑って下さい。それが正しい情報かどうか。冤罪ではないかどうか。犯罪者の身元が明らかでない段階であたかも「特定の属性」が犯罪を犯したと言わんばかりの内容ではないかどうか。それが特定の属性(マイノリティ)を排除する効果があるかどうか。

もし、上記のいずれかが当てはまりそうな場合、そういう風潮に加担しないで欲しいなと私は思います。それは巡り巡って貴方の身を危うくするものだからです。

実際に犯罪を犯したのが特定の属性(マイノリティ)だった場合、どう受け止めるべきか

まず、踏まえておくべきことは「犯罪を一切犯さない完璧な属性」というものはまず存在しないということと、「事実とそれに付随する偏見は明確に切り分けなければならない」ということです。

どんな属性であっても「犯罪者」や「問題のある人」は一定数存在します。
差別主義者はそういった(架空の人物またはごゆえにく少数の)犯罪者や特定の属性を持つ人物の問題のある言動を殊更にクローズアップし、「ほら、〇〇という属性はこんな怖い人がいるんだ!」という風に恐怖を煽り、特定の属性の排除を正当化するということをしばしば行います。

そしてそれは、エスニックマイノリティやセクシャルマイノリティ、障害者といったマイノリティ属性に対して特に顕著に行われます。
マジョリティに対してマイノリティは無知や偏見に晒されやすく、センセーショナルなイメージが先行しやすいと私は感じています。それゆえに排除もまた苛烈であるとも。

例えば日本で日本人が凶悪な犯罪を犯したとして、日本人全体が危険な存在と思うでしょうか?
危険だから排除するべきだと考えるでしょうか?
そうではないですよね。犯罪を犯した人が悪いのであって、属性で判断すべきではないですし、それ自体偏見を伴う不当な考えであると私たちは知っているはずです。

同じ日本人にも色々な人がいて、それぞれに異なる人生があり、一口には括れないこと。
一つの事柄を取り上げても様々な見方をする人がいること。決して全員が善良でもなければ意地悪でもないこと。犯罪を犯す人もいればそうでない人もいること。日本に生きる私たちは知っているはずです。
そして、それは他の属性においても同じことです。

よく知らない属性だからと偏見を持ち、雑に一括りにするのではなく、目の前にいる人をありのままに見ることが大事なのではないでしょうか。

犯罪が起こった時、私は事実は事実として見据えることが大事だと考えています。
そして、自衛のためには以下の情報以上のものは枝葉であるとも。

どういう事件が起こったのか。
どういう流れで被害に遭ったのか。
被害に遭った場所はどこか。
凶器や犯行に使われたものはなにか。

犯人の属性やバックグラウンドといった情報は却って「特定の犯人像」にバイアスがかかるので、「予想もしなかった犯人像」だった場合は逆効果にしかなりません。模倣犯が出る可能性もある以上、イメージは固めない方が賢明です。

だからこそ、特定のマイノリティ属性が犯罪を犯したことが事実でも、それを殊更にクローズアップするような報道や論調には懐疑的なものを抱いています。
ああいった論は「安心」を与える効果はあっても、安全には寄与しないからです。

(それが事実だとして、そこが主眼ではない上に、自衛に一ミリも寄与しない情報を必要以上に取り上げる必要はあるのだろうか)

(もし、マイノリティゆえに苦労されてきて結果的に凶行に走ったという話なら社会問題の一環として取り扱うべきで、センセーショナルに消費して終わりというのはどうなのだろうか)

そういった論を見掛ける度にそう思います。
だからこそ、人を属性で判断することについて、自分がどの場面で属性を意識することが多いのかについて、今一度振り返ったり、考えたりする事も大事ではないかと私は思います。

ざっくりまとめ

特定の属性(マイノリティ)を犯罪者ないし潜在的犯罪者と同一視することは差別扇動にあたる。
この差別扇動はマイノリティに対する恐怖を煽り、排除を正当化する効果がある。
マイノリティに対する無知や偏見を利用した差別扇動デマが出回ることがある。
犯罪者は犯罪を犯さない限り犯罪者ではない。
事実と偏見は分けて考えるべき。
人を属性で判断してはいけない。

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