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「好き」と「愛」について

会話の流れで、ある友人の好きと愛についての定義について聞くことがあった。それを聞いて、自分にとっての好きと愛とはまた違うなという感想を持ったので、その話を聞かせてくれた友人へのお礼も兼ねて、自分なりに好きや愛についてつらつらと書いてみたいと思う。

「好き」というものは私にとって非常にシンプルなものだ。理屈よりも直観や感情的な部分で好きになって、理屈はその後付け。
そういう位置づけに「好き」が存在するので、花を好むように動物や、友人や親しい人、時に虫も好む。海辺にある貝殻の不思議な模様も好きだし、他人の笑い皺も好き。ちょっと理解しがたいような奇抜なファッションも好きだったりする(着るかどうかはさておき)

私にとって「好き」の枠はシンプルであるからこそ、広範囲のものをカバーしているように思う。私自身、何でも好きで納得してしまっている部分もあるが、後から考えてみて「これは愛だったのかもしれないな」と思うこともしばしばだ。

たまに、好きという直観的/感情的概念で語り尽くせないシーンに直面する時がある。

相手と意見が対立したり、不快な想いを抱きはしても「好き」という気持ちが維持されているような状態だ。
直観的/感情的に否定的なものを抱いていても「好き」だと感じるこれは、多分「愛」が存在しているからこそこういった反応になるのではないかと思う。

「好き」では語り尽くせない/包摂され得ない概念を「愛」とするならば、私にとっての「愛」は違いの受容であり、不快なものも受け入れることだと考えている。恋人的、パートナー的関係性を形成することとはイコールではない。
それは相手が必ずしも愛を返してくれることを必要としないもので、愛は双方向性のあるものと定義した友人とは異なる意見だ。私はその違いがとても素敵だなと思っている。そういう意味では私はその友人を愛していると言ってもいいのかもしれない。

でも、だからといってその友人とどうこうなりたいという考えは今の所全くない。むしろ、今の関係がベストなものではないかと考えている。

相手にとってそうであったとしても、そうでなかったとしても、私にとってそれが「愛」だったのならば、それは私にとって確かにそうであったということなのだ。それだけ。

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