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勝鬘経と法華経の二乗作仏の違い

「二乗作仏は法華経だけの特色のように語られることがあるが、勝鬘経にも二乗作仏は説かれており、その点で法華経には優位性が無いのではないか」という議論がある。このことについて考えたい。

なお、この記事は、以前私がTwitter(現X)に書いた投稿を改めてnoteのためにまとめたものである。前後の議論も含め元々の投稿は、このポストから辿ることができる。

まず、勝鬘経において、二乗作仏を説いていると考えられる箇所として、一乗章第五の以下の箇所などが挙げられる。

二乗もまた一乗に帰一し阿耨多羅三藐三菩提を得る

大角 修. (2022). 維摩経・勝鬘経: 全文現代語訳 (角川ソフィア文庫版). 角川書店

これを読む限り、確かに勝鬘経にも二乗作仏を説いているように見える。だが、一方で以下のような経文も見られる。

八聖諦のうち、阿羅漢、辟支仏は無作の四聖諦を究められない(法身証第八

修行が進んで阿羅漢、辟支仏の清浄な智を得たものが一切智の境界にあっても、如来の法身は本より見ない(顛倒真実章第十二)

一つ目の句の無作の四諦とは阿含経などでも説かれる四聖諦(有作の四聖諦)とは別物であり、この無作の四聖諦に依拠することが究極の涅槃に至る条件とされる。そして二乗はこの無作の四聖諦を究める事ができないという。 また、二つ目の句ではより直接的に、二乗は真理に至れないと説かれている。
これ以外にも、勝鬘経には、二乗の成仏を否定するような句が、いくつも現れる。これは、一乗章で一乗への帰一が説示された後でも複数箇所で見られるのだが、それは一見すると一乗章の句と矛盾している。これをどう解釈すべきかが問題になる。

ひとまず先師先哲がどのように考えられたかを調べるため、日蓮聖人御遺文検索で日蓮聖人の御遺文をあたってみると、勝鬘経でこの辺りに触れてる箇所は真蹟では一つある。曾谷入道殿許御書で、勝鬘経の「若如来随彼所欲而方便説 即是大乗無有二乗」の経文から一乗方便三乗真実を説いた論師が過去にいたが伝教大師に破られたとある。この詳細はわからないが、当然ながら日蓮聖人にとっても勝鬘経が一乗を説くことは周知だった事はわかる。これ以外に、先師方がこの辺りどう考えられたかは正直あまり調べきれてない。一方で、最近の論考でヒントになると考えたのは松本史朗氏の有名な如来蔵思想批判か。

「法華経と日本文化に関する私見」

「『勝鬘経』の一乗思想について」

曰く、勝鬘経における一乗とは基体(全ての根源)であり、三乗とはその上に成り立つ属性である。勝鬘経に限らず、一般に如来蔵経典はこうした基体とその属性という論理構造を持っている。一切衆生が基体である如来蔵(仏性)を持つことは、一見平等思想のように見えるが、実は差別性を内包しているという。つまり、基体の上では皆平等なのだが、その属性に関しては、基体と異なるため平等とは言えない(もし基体と同一であるなら、そもそも属性とは言えない)この構造の元では、「一切衆生に如来蔵や仏性を認めるものの、実際に成仏できるとは限らない」という事態が生じてしまう。代表的な例は、涅槃経の一闡提の問題である。 勝鬘経に当てはめると、一乗は三乗の母胎であり、三乗は一乗に帰一することも説くものの、一乗思想の上で二乗の如来蔵を認めることと、二乗を実際に成仏させることは区別され得る。

余談だが、法華経はこのような論理構造をとっていないという。勝鬘経で三乗は大地を拠り所にして生える種子だと喩えられており、この大地が基体にあたるわけだが、法華経では薬草喩品の比喩がこれに相当する。薬草喩品においては、何か単一の物から三乗が生まれたという構造になってない。元々薬草(三乗)が生えていた所に雨が降って育ったという建て付けで、三乗を生み出した単一の何かは比喩の中に見出されない。基体の形をとっておらず、これは法華経以後の経典で基体説が生まれる原型である という。

話を戻すと、なぜ二乗が実際には成仏できないか、という具体的な論理を経文中に求めるならば、勝鬘経では法身を顕す(成仏する)ためには、無作の四聖諦(特に滅諦)を拠り所とする必要があり、二乗は従来の有作の四聖諦に依拠し続けているために成仏できない、というロジックになるだろう。

おそらくこの辺りを踏まえているのが、以下の経文ではないだろうか。

声聞縁覚にはだれも、この経の全てを観察し尽くし、知り尽くすことはできない(勝鬘章第十五)

これを解釈すると「一乗を認めるが、この経ではその成仏をサポートしない」という事なのだろうか。同じ経の中で授記まで行っている法華経とは対照的に思える。(ただし同じ章でアーナンダに経典の「流通」を託している意図は気になる。ここはよくわからない)

結論をまとめると、勝鬘経は確かに一乗を説き、全ての衆生の如来蔵を認めるものの、二乗に関してはその真理を理解できないとして、経中で具体的な成仏の道筋が説かれていない。この点で勝鬘経の二乗作仏を不完全と見て、法華経の優位性を主張する事はできるのではないかと考える。

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