【熊野古道巡礼記】 紀伊の山々と祈りの道
「次発は、南紀勝浦線です。お乗りの方はー」
いそいそと夜行バスに乗り込んだ僕は、普段味わうことのない高揚感と不安が混ざった、不思議な感情に包まれていた。死ぬまでに一度は行きたいと決めていた熊野古道。昨年計画したものの、悔しくも足の怪我で行けなくなってしまったため、1年越し、念願の旅だった。
2泊3日で僕が歩いたのは、せいぜい20km。全長1,000kmの熊野古道の2%に過ぎない。そんなやつが熊野参詣を語っているのが知られたら、当時(1000年前)の人々にこっぴどく叱られるに違いない。
紀伊の山々と熊野参詣、その原点
世界遺産として知られる熊野古道だが、実は正式名称ではない。正式には、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年から世界文化遺産に登録されている。
紀伊山地の3つの霊場(熊野三山、吉野・大峯、高野山)と、それを結ぶ参詣道
を総称しているというわけだ。
わかりやすい全体像については、新宮市観光協会にお任せする。
熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に詣でることを「熊野参詣」と呼ぶ。その起源は、有史以前にまで遡ると言われているが、(僕が学んだ限りでは)古事記(712年)や日本書紀(720年)の中での登場が、確認できる最古の記録とされている。
紀伊半島の大部分を占める「紀伊山地」は、標高1,000~2,000m級の山々が連なる山岳地帯。それゆえに、太古より神々が集う特別な地域だと考えられ、山や川、岩や森などに神々が降臨し篭っているという自然崇拝が盛んになる。これが、熊野の地の原点となった。
その後1,000年以上にわたり、身分や性別、年齢、ゆくゆくは国を超えて、数多くの人々により歩まれる道となる。壮大な物語が、詰まっている。
大願成就への旅路
平安時代の末(11~12世紀頃)、一大ブームとなった熊野参詣。「熊野御幸」と称された上皇による一連の旅路は、200年の間で延べ100回以上も繰り返され、京都 鳥羽を出発し、熊野三山(本宮大社、那智大社、速玉大社)への参詣を経て再び鳥羽に戻るまでの道のりは、全長650km、約1ヶ月を要する壮大なものだった。鎌倉時代には東国の武士に、室町時代には庶民にまで広がり、途切れなく人が行き交った様子は「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどまでになる。
遠く山川を越え、苦難の道をゆくことが良しとされた熊野参詣では危険も多く、道半ばとなる人も後を絶たなかった。(実際、道中に供養塔もあった)それでも、「現世利益」への願いが、多くの人々の心を惹きつけた。現代以上に、世界が未知・神秘で溢れていた中世の時代、人々は五穀豊穣・無病息災などを切に願い、熊野へと詣でていたのだ。
バスや車なんてもちろんない時代、一筋の希望を頼りに、文字通り命を懸けて、何日も、何十何百キロも歩き続けた。人が持つエネルギーって本当にすごい。
熊野古道 中辺路
大きく7つある参詣道のうち、最も利用されたメインルートが「中辺路(なかへち)」。先に述べた「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)として指定されるほどだったそう。
その中辺路の一部(上図でいう10番→11番→7番)を歩こうというのが、今回の旅の目的である。(やっと前提が揃った)
10番→11番→7番をもう少し詳しく書くと、
とにかく「越」えまくる計画だった。笑
1日目:大雲取越(熊野那智大社→小口)
ここは熊野古道「大門坂」
今回の旅のスタート地点は、熊野三山の一つ「熊野那智大社」に設定していた。市営バスを使って向かいながら、那智山の少し手前で降りると、「大門坂」を歩くことができる。
大門坂は、苔むした石段と杉木立が続く坂道。緩やかな登りが続き、30分〜1時間ほどで那智大社に到着する。樹齢数百年を越える木々に見守られながら、どこまでも続く美しい石段を登る経験は、ここでしか味わえない。(正直、2泊3日歩いた中でここが最も熊野古道らしい道だった)
押して楽しい、集めて楽しい押印帳
ちなみに、熊野古道には、各所にスタンプが用意されている。各ルートごとに用意されている押印帳や、同じく「道の世界遺産」として登録されている「サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路(スペイン)」との共通巡礼手帳を持ってスタンプを集めていくのが楽しい。
ここでは詳細を省くが、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの道(総距離3,000km、熊野古道の3倍)を巡礼することも、死ぬまでに達成したいことの一つ。それぞれの道でスタンプを集め、一定の条件をクリアすると、「二つの道の巡礼者(デュアル・ピルグリム)」の称号をもらえる。現在、正式に登録されているのは世界で約5,000人。なんとなく、1万人に達してしまう前に獲得したい気持ち。
熊野古道でいう中辺路に当たるメインルート「フランス人の道」は、総距離800kmに及ぶ道のり。ちゃんと歩いたら約40日かかる。壮大すぎてピンとこない。
旅人たちの守り神「九十九王子」
熊野古道には、「九十九王子(くじゅうくおうじ)」と呼ばれるものがある。
在地の神(熊野権現の分身である御子神)が祀られていた諸社を「王子」と定め、熊野参詣の途中で儀礼を行う場所とした。修行する行者を守護する神仏が、子どもの姿で現れることが多かったことから、王子と呼ばれるようになったとか。
よみがえりの旅と熊野三山 「熊野那智大社」
熊野参詣では、全国に点在する熊野神社の総本山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に詣でる。熊野三山と称されるそれぞれの社を巡る旅路は「よみがえりの旅」と呼ばれている。
「過去」を司る熊野速玉大社、「現在」を司る熊野那智大社、「未来」を司る熊野本宮大社。長い旅路の中で、自身の過去・現在・未来を見つめ直し、新たな気持ち生まれ変わる。らしい。よみがえるって、どんな感覚なんだろう。
死出の山路「大雲取越」
いよいよ本格的な熊野古道に入る…と行きたいところだったが、1日目の「大雲取越(おおぐもとりごえ)」は実現できなかった。夜行バスの到着が大幅に遅れてしまったため、そして、想像以上に過酷なルートであることがわかったためだ。
大雲取越(おおぐもとりごえ)は、片道7~9時間かかる難関コース。「雲を取りに行く」かの如く、激しいアップダウンがあり中辺路一の難所と言われている。
3日目に立ち寄った熊野本宮館で、大雲取越について詠んだ和歌を見つけた。
現代語訳をすると以下になる。
大雲取越をしなくて本当に良かった。人生万事塞翁が馬。2泊3日の道中では、世界各国の旅人たちとすれ違った。それぞれが屈強な体を持ち、果敢に大雲取越に挑んで行った。皆の無事を祈る。
***
とはいえ、せっかくここまで来たのだから、30分ほど登ってみた。
熊野古道への入り口は、びっくりするほど目立たない。意図して探さなければ、見つけることは難しい。それほどまでに、地域に溶けこんでいる。観光財として大衆化されるよりはよっぽど良い。
山越えをした旅人たちが集う宿 「小口自然の家」
気を取り直して、バスで宿へと向かう。那智大社から小口までは、バスで2時間半ほど。
大雲取越、小雲取越のちょうと真ん中にあるのが、小口の郷。耳を澄ますと聞こえてくるのは、川のせせらぎと虫たちの鳴き声だけ。
すべてが新鮮すぎて、少々ビビりながら散策していると、オーナーが教えてくれた。
「もう40年も前のことだがね、まだ皇太子だった頃の天皇陛下もいらっしゃったことがあるんだよ。大勢の護衛を引き連れながらね…小雲取越をしてここで休憩されたんだ。」
「最近は、お客さんのほとんどが海外の人たちさ。明日は…オーストラリア、アメリカ、ドイツからお客さんが来るんだよ。」
実際、僕が泊まった日も、アメリカとドイツからはるばるやって来た方々が泊まっていた。ちょうど晩ごはんのタイミングが重なり、アメリカから来たと言う男性の話を聞いた。
「俺はシカゴから来たんだ。今年の夏まで、息子が東京の大学で学んでた。せっかくだから、家族総出で日本に大集合ってわけだ。でもどうしたことか、家族はちょろっと観光してみんな先に帰っちまったんだ!貴重な機会なのにもったいないだろ??だから一人で日本を巡ってる。今日のトレイル(小雲取越)もハードだったよ!haha!」
…話すだけで元気をもらえるナイスガイだった。
2日目:小雲取越(小口→熊野本宮大社)→伏拝
出発の朝、交差する人生、響き渡る法螺貝の音
例によって、朝ごはんももりもりだった(山越えをするにはありがたい)。シカゴのナイスガイと、ドイツのナイスガイと3人で、他愛もない会話をしながらもりもり平らげる。
シカゴのナイスガイが忠告してくれた。
「昨日俺が歩いてきた道(小雲取越)を行くんだろ?道中に水はなかったからな。出発前にちゃんと準備しとけよ!」
宿に自販機があったから、500mlを4本、ザックに詰める。
ドイツのナイスガイは言っていた。
「俺はもう疲れちゃったからバスで帰るよ!haha!」
…旅路に正解はないみたいだ。
別れ際、最後にみんなでBig Hug。屈強な体、大きな手、軽く2m越えの大男たちから、めちゃくちゃエネルギーをもらった。元気出た。
なぜか安室奈美恵のHEROがグラウンド中に流れながら、オーナーが法螺貝を吹いて、それぞれの出発を祝福してくれた。一人は僕とは反対方向へ、一人はバスに乗って、それぞれの道を行く。
(これまでの人生で、法螺貝を吹いて送り出されたことはあるだろうか。大河ドラマでしか聞いたことがなかったけど、体の底まで響く重低音にめちゃくちゃ士気が上がるし、体の底から元気が湧き出てくる。ぜひ体験してみてほしい。)
***
一期一会を肌で感じて、その尊さ、大切さに気づけるのが、旅なんだと思った。
これまで出会った人たちは皆、熊野古道に来なければ出会うことはなかった。かといって、ずっと一緒にいるわけでもないから、分かち合える僅かな時間をともに楽しむ。「気をつけて!」「良い旅を!」「バイバイ!」最後はお互いの身を案じながら、それぞれの道を行く。
正直、もう会えない確率の方が圧倒的に高い。今の時代、つながってまた会おうをすれば会えるけど、それでも会えない確率の方が高い。だからこそ、その出会い、縁に感謝したいし、大切にしたいと思った。
国を超えて、いろんな人生が交差する、「旅」というものの面白さを知った。それが、今回の旅の、大きな収穫の一つだった。
雲を掴みに。「小雲取越」
オーナーは、熊野古道のピークは、歩きやすい気候の4〜5月、9月〜11月だと言っていた。(後述する、2日目の宿のオーナーも言っていた)
まぁ、この猛暑の中歩きたいと思う人の方が少ないよな、と思いながら歩みを進める。とはいえ、確かに暑いし、一段登るだけで汗が吹き出してくる。ザックも重い(そりゃあ2Lの水を背負ってれば尚更)。山中での熱中症だけは避けるために持ってきた、塩分タブレットとOS1が大活躍した。
暑さと疲労と闘いながら、感じたこと、学んだことをここに記しておく。
「登山って、人生だよね。」
山好きな方々からよく聞くこの言葉は、本当だ。
***
1時間ほど歩く(というか登る)と、反対側から人がやってきた。詳しくは忘れてしまったが、熊野古道のガイドをしており、訪れる人たちの安全のために、定期的に歩いているという。いきなり人が現れてビビった。
この道を最初に作った人たちが、本当にすごいですよね…。と感嘆の声をこぼすと、その方は教えてくれた。
「この辺り一体は、火山活用によって噴出したマグマが、地下深くで押し固められた花崗岩でできています。花崗岩は硬いですが、石材をわざわざここまで持ってくる必要はなく、山中で削り出した石をそのまま道の舗装に使ったんです。」
自分が知らなかった世界を、想像もしない角度から教えてくれる。旅、そして人との出会いの面白さを知った。
「ここから先はもう、正直、楽だと思います。平坦な道が続きますし、天気も良いですし。」
そう言って、送り出してくれた。
どこまでも広がる、熊野三千六百峰 「百間ぐら」
小雲取越も後半戦に差し掛かる頃、「百間(ひゃっけん)ぐら」というスポットに辿り着く。果てしなく広がる熊野三千六百峰を前に、息を呑んだ。
どこまでも続く山々、ゆっくりと流れていく夏の雲。一緒に旅をしているかのように、臨場感感じられるような写真を撮ってきたつもりだけど、やっぱり現地に行かないと感じられない空気感がある。一生忘れられない絶景になった。
しばらく(といっても百間ぐらから1時間ほど)進むと、車の音が聞こえてくる。森の中の静寂はちょっと怖かったから安心するけど、人工音によって現実世界に引き戻される。
清流「熊野川」、聖地「熊野本宮大社」
小口からスタートする場合、小雲取越のゴールは請川バス停。ここから熊野本宮大社までは歩いて45分ほど。バスなら15分ほど。
ちなみに小雲取越入り口横にある「とりそば下地橋」が最高に美味しかった。ぜひ食べてほしい。山越えした後の体に沁みる…。
山あいに佇む宿 「農家民宿はる」
前日は疲れもあり、22時に就寝。翌朝、5時半に起きて、もりもりご飯を食べて、7時に出発。それもあって、16時にはもうへとへとだった。熊野本宮大社から、本日の宿へと向かう。
それなりに坂道を登り、標高200mほどに位置する、伏拝集落に辿り着く。そこで出迎えてくれるのが「農家民宿 はる」。
HPを見てもらえたらわかるが、インターネット黎明期を彷彿とさせる雰囲気が漂いながらも、10年以上ブログが更新され続けている。たまたまGoogle Mapで見つけた時、「ここのオーナーは只者じゃない」と衝撃を受けたことを、今でも鮮明に覚えている。
「いらっしゃい。今日も暑かったでしょう。」
呼び鈴を鳴らすと、おじいちゃんオーナーがあたたかく迎え入れてくれた。父が立ち上げたこの宿を引き継ぎ、20年ほど運営をしているという。
「最近は外国人のお客さんも多くてね。英語は話せないから勘弁勘弁(苦笑)。身振り手振り、ジェスチャーでなんとか乗り切ってるよ。」
そう言いながらも、分厚くて、ボロボロな宿泊記録には、世界中・日本中の人々からの感謝と応援のメッセージが書き込まれていた。
おいしいご飯を食べながら、オーナーとこの宿のこれまでや、僕のこれまでの旅の話をして盛り上がった。
小雲取越をしただけでもへとへですよ〜〜
と僕が弱音をこぼすと、
「かぁっ、まだまだあまちゃんだね!」
と笑い飛ばしてもらったのもいい思い出。
今日も今日とてへとへとだったから、22時には床に就く。
ふと、これまで歩いてきた道を思い出す。夜になり、闇に包まれても、雨の日も、晴れの日も、熊野古道は、何十年、何百年とただただそこにあり続けている。それを想像すると、果てしない壮大さを感じた。気づかぬうちに、深い眠りに落ちていた。
3日目:伏拝→大日越(熊野本宮大社→湯の峰温泉)
平伏して拝むほどの絶景「伏拝王子」
朝5時半、目覚ましの音で目が醒めた。窓の外はぼんやりと明るくなり始めている。寝ぼけなまこで外に出ると、紀伊の山々が朝日に照らされていた。
おいしい朝ごはんをもりもり平らげ、身支度を整え、いざ出発。オーナーが、熊野古道への近道まで案内してくださった。
しばらく行くと、オーナーは立ち止まって言った。
「この坂を登って行きなさい。道なりに行けば、看板が見えてくるからその指示に従っていけば良い。」
こ、この坂道ですね…!わかりました!
少々の不安を感じながらも、この坂を登って行ったら、ジブリのような、何か冒険が始まりそうな、そんな予感がした。
***
最後に改めて、オーナーにお礼を伝える。
「私が生きてるうちにまた来てな。この宿もいつなくなるかわからんからなぁ。」と笑いながらオーナーは言う。
そんな寂しいこと…と思いながらも、冗談ではないこともわかっている。
「お仕事がんばってね。達者で!」
そう言って、元気に送り出してくれた。
オーナーや働いている人の顔が見え、会話ができる宿に泊まることの意味は、「旅先に、また会いたいと思える人が増えること」だと感じた。一泊しかしていないのに、出発の時が近づくと、どこか寂しくなる。そんな場所、人に、もっともっと出会って行きたいと、強く思った。
***
しばらく行くと、お茶畑に出た。伏拝の日常を横目に、歩みを進める。
「伏拝」という名前は、九十九王子の一つである「伏拝王子」に由来している。
長く険しい道を歩いた人たちが、初めて熊野本宮大社(現在の大斎原)をその目に捉えることができた場所。感動のあまり、人々は平伏して拝んだという。
大斎原の大鳥居を望む「ちょっと寄り道展望台」
伏拝集落を抜けると、本格的に山の中に入っていく。
秘境温泉へ。「大日越」
伏拝から再び熊野本宮大社に戻ってきた。熊野本宮館で熊野古道の歴史について学び、腹ごしらえをする(このnoteを書くにあたってもとても役立った)。
3日目は「大日越」をして、湯の峰温泉へと向かう。
大日越では、熊野本宮大社・大斎原を抜けて、1つ山越えをする。約2kmほどしかないが急な登りが立ちはだかり、史跡も残っているため、登りがい・見どころ万歳のルートだ。そしてその先には、4世紀頃に発見された「湯の峰温泉」が待っている。旅人たちの疲れを癒した休息の湯。俄然やる気が湧く。
よみがえりの伝説 「湯の峰温泉 つぼ湯」
大日越が終わる頃、鼻をつくような硫黄の匂いが立ちこめてくる。温泉地が近い証拠だ。
開湯1800年にも及ぶ湯の峰温泉には、1日に7回も湯の色が変化するといわれている天然温泉「つぼ湯」がある。参詣道の一部として世界遺産にも登録されている珍しい温泉。当時の人々は熊野詣の旅の途中、湯垢離(ゆごり:湯で身を清めること)を行い、聖地での禊ぎをしていた。
また、毒殺されかけ、耳も聞こえず、目も見えず、口も聞けなくなってしまった小栗判官という人物が、美しい姫の導きでつぼ湯に辿り着き、49日間つぼ湯に浴するうちに、体が全快し、蘇生する、という「小栗判官物語」が、室町時代から現在まで語り継がれている。
熱々の湯と、板の隙間から吹き抜ける風が最高に心地よかった。言葉にするのが惜しいくらいの体験。
昔の人たちも、なんなら小栗判官も、湯に浸かりながら、同じように天井を見上げていたんだろうか。板の隙間から差し込む光が、幻想的だった。
ぜひ一度、浸かってみてほしい。できれば山行をしてから。笑
紀伊の山々と祈りの道
最後は、湯の峰温泉からバスに乗って新宮駅へ。あとは夜行バスに乗るだけ。旅の終わりが近づいている。
1000年以上も前から、同じ道を辿ったたくさんの人たちがいるという事実に圧倒され、心の底から感動する。一体、どれだけの覚悟で歩いていたんだろう。
正直、紀伊の山々や熊野古道からすると、人間が勝手に道を作って、意味づけをして、物語を紡いできたにすぎない。日本列島が形を成し始めた頃から、紀伊の自然はただそこにあっただけ。
それでも、人々は、五穀豊穣・無病息災・来世での繁栄、様々な幸せを願ってきた。そして熊野古道は、それを見届けてきた。何百年、何万人の人々により紡がれてきた意志を。願いを。歴史を。
だからこそ熊野古道は、幸せへの願いが詰まっている「祈りの道」だったんだ。
夜行バスに乗るや否や、緊張の糸が切れたのか、気づいたら寝ていた。深い深い眠りに落ちていった。
***
無事に帰ることができ、日常を送っている。
きっと、小口の宿も、農家民宿はるも、今日も世界各国から来たお客さんを受け入れているだろう。今日も明日も、明後日も。シカゴとドイツのナイスガイは、無事それぞれの国に帰れたかな。笑
街に出てしまうと、今回の旅がぜんぶ幻だったじゃないかと思うくらい、現実に引き戻されてしまうけど、そんなことは梅雨知らず、紀伊の山々、連なる道は、今日も静かに、佇んでいる。
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