韓国前夜の走り書き(雑記)

出発は明日の朝8時なのだが、本当に忘れ物がないか、再度スーツケースをひっくり返して確認していた。なにせ、海外旅行は初めてなのである(しかもひとりだ)。

事前にいろいろな人に話を聞いて、思いつく限りの準備をしたとはいえ、不安は尽きない。今まで使っていたスーツケースを捨ててしまっていたと、思い出したのがなんと先週のこと。ハンドクリームや塗り薬等の液体類はジップロックに入れなさい、とあるのにはさっき気がついた。ジップロックなんて家にはないので、明日、空港に行くまでのどこかで調達せねばならない。本当に、先が、思いやられる……。

空っぽのスーツケースのような人生だったと思う。

もちろん「人生だったと思う」と総括するにはあまりに早すぎる、とは思う。己を指して「空っぽ」と称するには、環境に恵まれすぎているし、人からなにもかも与えられすぎてきた。

それでも、慌てて購入した安物のスーツケースを、砂埃で汚れたビニール袋から引き上げたとき、その取手の軽さに「なんかこいつ私みたいだな」と思ったのも事実である。

私事だが、今年の3月末をもって会社をやめた。

やめたあとの計画はなにも立てていなかったけれど、それでもぼんやりと、やってみたいなと思っていたのが韓国旅行だった。とはいえ、韓国に行ってやってみたいことが特にあるわけではない。

去年のわたしだったら、大好きなK-POPや花様年華の聖地をめぐるとか、本場のグルメを食べるとか、いろいろな計画に胸を躍らせただろう。グーグルマップにいくつも立てられたピンは、そのころの夢の跡地だ。そんな跡地も、いくつか巡ろうと思っている。

計画はないが、ひとつ試してみたいことはある。

まったく言葉の通じない、自分ひとりでなんとかせねばならない状況に放り込まれたとき、自分はどうなるのか。そこに興味がある。

『メタモルフォーゼの縁側』という映画がある。有名なコミックが原作らしいのだが、わたしがこれを初めて知ったのは映画館だった。当時勤めていた会社の同期に誘われ、仕事終わりに駅前のシネマへと走ったのだ。がんばって残業を早く切り上げたけど間に合わなくて、劇場へ着いたころにはもうレイトショーの枠しか残っておらず、上映終了後、シネマから駅へと再び駆けた。あと2分遅かったら、終電が行ってしまうところだった。

あの日、一緒に映画の感想を語り合った同期は、その後半年も経たないうちに会社を辞めてしまう。

『メタモルフォーゼの縁側』で描かれるのは、BLコミックを通した、女子高生(うらら)と老婦人(雪)のあたたかい交流だ。自分の趣味に後ろめたさや恥ずかしさを覚えていたうららは、やがて、即売会への参加をめざし、初めての同人誌を完成させるべく「まっすぐに努力する」こととなる。

ふたりの挑戦がどんなところに行き着くのかは、ぜひ作品上で目の当たりにしていただきたい。ここで触れたいのは、うららが作中で直面した「好きなことをやり抜く」ことの難しさである。

例えば、初めてGペンを握ったときの高揚感。ワクワクはすぐに、うまく線を引けないことへの恥ずかしさに塗り変わる。真新しい原稿用紙を何枚も汚して、机の端へ追いやっても、次の日にはまた描いてしまう。

そうして「好き」と「恥」の間で浮き沈みを続けながら進んだ先に、なにがあるのか。

会社の同期。決して多くはなかったが、みんなそれぞれの「好き」を持って入社した、尊敬できる仲間たちだった。2年のうちに、彼らの半分以上が体か心を壊して辞めた(わたしはどこも壊していないが後を追った)。ついでに言えば、わたしのひとつ下の代でも、退職者が相次いでいる。

たまに会うと、こんな話になる。「もっと頑張れてたら、わたしたちどうなってただろうね」。

頑張れなかったわたしたちは、何に負けたのだろう。「好き」の気持ちが足りなかっただろうか。「恥」の重さに押しつぶされたのだろうか。それとも単純に体力、気力の問題か。

いいや、負けてなんかない。そう言いたい。けれど事実として、今日もあそこで日々頑張りつづけている同期がいる。私たちは、そこから降りた側の人間なのである。

明日の仕事が怖くて眠れない、と泣いていた後輩が、それでも店頭でレジ前に立たされていたとき、わたしはなにもできなかった。「なにもできなかった」と悔やむだけの良心がまだ残っているのだと、自分を慰めながら、PCモニターを食い入るように見つめていた。わたしだって、がんばれなかった彼女を見殺しにした。がんばるとは、何だろう。

そんな良心なら、ないほうがましじゃないか。

空っぽのスーツケースみたいな人生だった、といった。空っぽである。25年かけて詰めてきたの荷物を、ぜんぶ取り出して日向に晒して眺めている。

いつかどこかで、もう一度拾いたい。まっすぐに燃える「好き」と、宝物のような「恥」を。

そのための韓国だ。初めての、海外旅行だ。未知の世界にすくんで、スーツケースがべこべこに凹むなら、それまでの器だったということだ。

ならばせめて、べこべこに凹めるだけの体験をしよう。


そんなこんなで1時を回ってしまった。本当に起きられるのだろうか(そしてジップロックは調達できるのだろうか)。無事に行って帰って来れますように!!