夜の帷に包まれて

夫が寝息を立てている。
いびきと寝相を気にして、彼はいつも床に布団を敷いて眠っている。結婚前はダブルベッドで二人で寝ようと言っていたのに、結局別の布団で眠っている。慢性的な鼻炎持ちの夫は鼻がつまったような呼吸をして、すうすうと、まるで文字が浮かぶように寝息を立てる。

頭上にあるエアコンから暖かな空気が送り出されてくる。1時間で切れるタイマーにした。買う時は高いと言ってさんざん渋ったのに、使い始めるとやはりよい性能だったので選んでよかったと夫はいつも満足げにして、私より先に寝てしまう。

季節柄もあるとは思うが、年を重ねたせいか足の乾燥がひどい。脛がひび割れた砂漠の大地のようだし、かかとが布団に引っかかってかりかりと擦れる。保湿クリームを塗れば良いのだが、メゾネットタイプのアパートなので、階下にある。布団から出て取りに行くのが面倒だなと思う。夫がわずかにいびきの混じった寝息を立てる。

日々の中で忙殺されて、生活をするのに必死がために、すぐに何かが起こっても忘れる。忘れてしまうと、もはや何も起こっていないのと同じように思う。何か起こった時に書き留めることが出来たら良いのだろうが、生活がそれを許してくれない。と、書いてみたところで、やはり、許さないのは自分なのかもしれないと思う。生活以外に使う時間があるのかと、必死な私が必死にすがりつく。私は、私の必死さに戦きながら払い除けることは出来ない。

足の乾燥が相変わらずひどい。布団とかかとが擦れてはかさかさと音を立てている。

普通に生きていける思っている。思っていた。でも、普通に生きることはやはり難しいことだった。夫と諍いを起こしながら、虚しさを分け合いながら生きていく。悟りを開いてもすぐに懊悩の底に落ちていく。それでも、生きていかねばならないので、やはり必死にならざるを得ないのだろう。

夜の帳に包まれて、フリック入力をせっせと行う。夫が寝返りを打つ。私のかかとが布団に引っかかる。静かな夜だ。思えば遠くに来たものだ。どこから、と言われると困るし、さして冒険をしたような人生ではなかったし、思い起こせば最短ルートで生きてきているから、言うほど遠くでもないのかもしれない。でも、やはり、遠くに来た。
これから先も、また、遠ざかっていくのだろうか。その時もまた、ちゃんと言葉にして書きおいておけるだろうか。

ひとまず、夫を起こさないようにして寝室を出、階段を降りていけるように、そっとおきあがらなければならない。そうして保湿クリームを塗って、夜の帷に包まれて眠らなければ。