男らしさから降りるということ

フェミニストのよく使う『男らしさから降りる』という言葉がある。どうもフェミニストは男らしさから降りれば完全無欠のポリコレ人間が出来上がると誤解しているようだ。馬鹿じゃないかと思う。男らしさから降りた人間をポリコレ人間にするには、致命的な要素が欠けている。それは男らしさから降りた人間を『弱者』扱いして、フェミニズムのような無限の優遇を与えることだ。ポリコレ的に『強者』と規定される男がポリコレ人間になるメリット等は皆無である。そんな当たり前のことが分からないところが非常にまぬけだと思う。私は、いつもフェミニストに問いかけている「それになんのメリットがありますか?」にまともに答えられたことはない。当たり前だ。メリットなんてないのだから。

男らしさとはなんだろうか?『力強さ』『競争心』『庇護心』『自己犠牲』等々がぱっと思いつく。これから降りた人間とはどうのような人間だろうか?ひ弱で、競争心はなく、自分が一番大事な人間。そう私のような人間である。馬鹿なフェミニストは男らしさから降りた人間が『強者』と規定されながら、旧来の構造を打ち破るために女と一緒に無償で戦うと思っているらしい。本当に笑ってしまう。馬鹿なのだろうか?そんなの非常に『男らしい』ではないか。女性を支援するようなリベラルな方々が裏で性加害を犯しているような事件を耳にすることがある。皆さんは不思議に思うかもしれないが、私には当然の帰結に思える。『強者』と規定されながらリベラル的な思想で女性を支援するような人間なんてどう考えても『男らしい』のだ。『男らしい』のであれば当然フェミニストが『負の男らしさ』などと名付け嫌悪している部分も当然持っているのである。コインの表と裏のようなものだ。『力強さ』『競争心』には『加害性』。『庇護心』『自己犠牲』には『支配欲』がついて回る。

男らしさから降りた人間を作りたいのであれば、彼らを『弱者』と規定するしかないのだ。例えば、性的資本の偏在を解消するために股を明け渡してみればどうだろうか?いつまでも、『男らしい』リベラル騎士様を期待し続けていては、世界は一向に変わらない。旧来の規範を取り払った後に残ったのは、『男らしい』人間と『男らしくない』人間の両極端だ。どうにも、リベラルな方々の妄想した世界は遠そうである。

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