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『ノンセクが26年間を振り返ってみた話』⑳傷つけたくない、傷つきたくない

    自分のセクシャリティと向き合っていくと、だんだん自分自身のことが分かるような気がして嬉しかった。その一方で負の感情も強まっていった。罪悪感と絶望だ。


    罪悪感の相手はTくんとAくん、元交際相手だ。彼らはごくありふれた恋愛を求めて、私と向き合っていたはず。おそらく遊びではなかったと思う。(私も遊びでは一切なかった)
    だけど、温もり、愛を向けても、それを思うように受け取ってもらえない、お返しがない日々はもどかしかったんじゃないかと思う。2人とも優しい人だったから、もしかしたら自分を責めていたかもしれない。
    振り返って色々考える中で、私は彼らが求めていたものを自分都合で避けていたと知り、彼らの愛を無下にしてしまい、申し訳ないという気持ちだ。
    それに、結婚適齢期の彼らにとって、時間は無限ではないのに、こんな私に半年や1年も使わさせてしまったことにも申し訳なさがある。

    今でも「経験をつめば上手く行くかも」「運命の人に会ったら気持ち変わるかも」「まだまだこれから!」という思いがよぎることもある。確かにその可能性は残されている。だけど、それを追い求めると、また新たに、私に恋愛感情を持ってくれて愛を伝えてくれる人、愛を通わせたいと思う人を傷つけるんじゃないか、という恐れがつきまとう。
    これ以上、誰かにTくんやAくんと同じ思いをさせるようなことはしたくない、そんな気持ちである。

    

    そして絶望。
    結局、私は恋愛における「愛し、愛される感覚」が分からない、愛情表現に無意識に抵抗してしまう、そして身体を合わせようとすると身体が拒む。だけど、世の中の恋愛はそれが前提で成り立っている。
    ということは、これから先、私は誰かと一緒になれるのだろうか?家庭を築くことはできるのだろうか?
    生涯独身でいたい!自由気ままに生きたい!っていう人なら問題ないが、私は1人が好きとはいえ、いつかはパートナーと一緒になりたい、そしてこんな状態だけど子どもがいたらいいな、と思っている。そんなだからこの現状を突きつけられると………どうしていいか分からず、絶望を感じる。


    悩めば悩むほど周囲にも敏感になる。まだ、友人知人が恋人との話をしてくれたり、SNSで結婚報告したり、子どもの様子をアップしたりというのには、「素敵やね」「おめでたいな」という気持ちでいられる。
    だけど、これがより近しい人になると事情が変わってくる。
    「結婚した」「妊娠した」「子どもが産まれた」
    最近、私の兄弟親族ではこんなのが続いている。本当はお祝いごとなのは分かっている。でも、直接言われないがどうしても「ジュリちゃんは?そういう人いないの?」という言葉が尾びれにひっついているように感じてしまう。そうすると、「私はこの先どうなるんだろう…」という不安が膨らんで、にこやかになれない。逃げ出したくなる。
    特に兄嫁に対してはそうだ。元々嫌いな兄を愛する奥さんっていうのもあるが、年齢も一緒くらいなので、恋愛して結婚して…という彼女の姿と、恋愛できない自分をどうしても重ね合わせてしまって焦る。兄嫁に何かされたわけではないが、自分が傷つきたくないがゆえに、交流を避けたいと思ってしまう。
    そういった態度は自分の立場を悪くすることや、因果応報、後々自分に返ってくるかもしれないのは重々承知しているが、私は常に相手の気持ちを第一に行動できるほど、器の大きい人間じゃない。

    セクシャリティを探り始めたがゆえに芽生えた感情の数々。悔しくて情けなくて泣くこともあるけど、向き合っていくしかない。今はそう思っている。