クソくらえ恋愛感情と調教された期待
昨日は誕生日でした。わざわざSNSで誕生日報告をするのも億劫だし、わざわざプロフィールに登録して「誕生日です。みんなでお祝いしましょう」みたいなシステムメッセージに呼びかけてもらうのもなんか小っ恥ずかしいのでやらない。
noteは知り合いが見てる可能性が限りなくゼロに近いので、こうして情けない話をぶっちゃけている次第であります。
「システムメッセージの呼びかけに反応して、お祝いの言葉を慣習的に送られる」か「誕生日を記憶している人からお祝いメッセージがくるのを待つか」
私は、誕生日に関して“ツンデレ頑固じじい”なので後者を選ぶ。ほらね、めんどくさいでしょ?カッチカチに冷凍されたスライス肉の解凍ぐらい面倒でしょ。
だが、めんどくさい奴にはペナルティが発生するのだ。世界はそういう風にプログラムされている。
ペナルティとは、「あの人なら私の誕生日を記憶しているはずだから連絡くれるはず…」という期待。そして、その期待を“裏切る展開”だ。
これぞ、めんどくさい奴に課せられたペナルティ。
『家族や親しい友人から歳を重ねたことを祝われる』ぬくぬくと積まれてきた“期待”は、環境や周囲に調教されてできたものに近い。
たとえば、家族から毎年誕生日を祝われて育ってきて、15歳になる日にプツリと途切れるように祝われなかったらどうだろう。
反抗期かつ思春期の中坊でも、割と傷つくはずだ。これが、「調教された期待」がもたらす傷。
毎年ではなく気まぐれに祝われたり、祝われなかったりすれば期待は小さいし、一切誕生日を祝われることがなければ期待すら生まれない。
さらに、その「調教された期待」にひとつの要素をかけ合わせてみるとしよう。
ひとつの要素とは、ご存知「恋愛感情」である。
めんどくさい奴がめんどくさい感情を持つと、めんどくさいことになるのは火を見るよりも明らか。
「あの人なら私の誕生日を記憶しているはず…」の対象が好意を寄せている人であれば、その期待が外れた時の凄惨さは想像を絶する。
今年はもう別にそんなことはない(といえば、ない)が、過去には幾度となくあった。思い返すと非常に胸が痛いメモリーだ。
だから、私は誕生日を迎えて早々に宣言する。
「恋愛感情」と「調教された期待」はクソくらえである、と。ちなみに、「素直にLINEとかのプロフィールに誕生日登録してシステムメッセージに呼びかけてもらえばいいじゃん」といわれれば論破される。
しかし、システムの力を借りてでも祝われなかったら、むごたらしい誕生日を迎え、当分立ち直れないので私はやらない。
せめて親しい人からはお祝いされるように、また一年がんばって徳を積むことにします。それでは。
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