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発達障害 ≒ 異文化? その1

職業柄、発達障害に関しては色々と調べてきた。

中でも青木省三先生の「僕らの中の発達障害」(ちくまプリマー新書)はかなり示唆に富んだ本で、私の発達障害に関する見方を大きく変えてくれた。

この本を読んでから、自分も発達障害かもと思う節がたくさん出てきた。

例えば私は5分~10分という短い時間の使い方が下手である。だから余裕があったはずなのに、遅刻ギリギリになったりすることもしょっちゅうだ。時間の概念化か苦手なのだろう。

また、「私に向かって話しているわけではない場面」で集中することが苦手だ。
会議など分かりやすい場面だが、そのような場面では、あくまで「全体」にたいして情報伝達がされているのであって「私個人」が対象ではない。
このような場面では(興味がある内容なら別だが)集中力がすぐ散漫になる。興味深いのは、これが5人程度の小集団でも起こるということだ。
発言者が、「私を含む他の四人」に話している場合、かなり集中しなければ容易に置いてけぼりになってしまう。

「グレーゾーン」という線引き

この本を読んで以降、発達障害グレーゾーンと健常者と言う線引きが私のなかであまり意味がなくなった。

前からそう考えていた節もあるのだが、その感覚が確信に変わったといった方が正しいかもしれない。

私の場合、「これは発達障害の特性なのでは?」と思うような事例は、上述ように「そんなこと誰だってあるよ」というレベルだし、私の周りにいる人は身内ですらこの特性に気づいていない。

だからこそ思うのだが、それくらい発達障害とは身近なことで、発達障害グレーゾーンと健常者という線引きにあまり意味はないのではないだろうか。

完全に私の経験則だが、「私、グレーゾーンかも」と思った人は、たぶん「そう」である。しかしそれは恐らく虫歯と同じくらい一般的なことだ。何も特別なことじゃあない。

というか、そう考えた方が自然ではないか?身長2mの人と150cmの人しかこの世にいなかったらおかしい。世の中はいろんな身長の人がいるのと同じように、人の認知能力も在り方にばらつきがあっていい。

むしろ線引きすべきは…

大切なのは社会生活で困っているか、自分の工夫でどうにかなるかの違いである。

この線引きは大事だ。

自分の工夫でどうにかなるならすべきだ。これは発達障害云々関係なしに、大人として社会に出る全員が備えておくべきマインドである。

ただ、(これも当然だが)自分の工夫でどうにかならないなら、当然適切なサポートを受けるべきだ。
合理的配慮というやつだ。

ただ不思議なことに、「自分は(自分の子供は)絶対に絶対に発達障害じゃない!」と意地になって、適切な支援に繋がりにくい人がいる。

ご本人はそれでいいが、子供は少しかわいそうだ。さっきの身長の話じゃあないが、情報を得る方法は、講義、一対一の対話、オンラインのライブ動画、オフライン動画、イラストや図を使った視覚に重点をおいたもの、文字情報などいろいろとあり、どのツールが得意かは、その人の認知能力によって変わってくる。

そして残念ながら学校教育における「通常学級」が提供できるのは、今のところ基本的に「一斉授業」一択なのだ。

学習に困難を伴うのであれば、その子の特性に合わせた配慮が必要なのはもちろんのこと、その選択肢の一つとして特別支援学級は忌避すべきものではないと思うのだが、なかなかそう判断する人は少なく、学力が振るわない→塾で一斉授業→学力振るわずという悲劇はわりと「一般的」ではないだろうか。

長くなってきたので、本題に入らないままその1完

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