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ギンヤンマを追う息子から教わったこと

お盆休みなのでゆっくりできるかなと思いきや、もちろんそんなわけはなく、息子に引かれて虫取に駆り出される毎日…。

公園へむかうバスの中でも「ギンヤンマを絶対に捕まえるんだ」と鼻息が荒い息子。

放出される二酸化炭素で室内の温度が上がり始めたところで、バスは炎天下の公園へと到着。

公園の池の上を悠々と一匹のギンヤンマが飛び回り、ひっきりなしに縄張りに入ってきたシオカラトンボに攻撃を加えている。

ヤツがこの池の主だ。

闘いが始まった。

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ヤツはギリギリ網が届かない距離を旋回。

ヤツが陸に近づいてくるまで、私も息子もただ息を殺して待つ。

日光が全身を突き刺す。

池の上で無限に旋回を続けるギンヤンマ。

狂ったようなセミの鳴き声のなか、二人の肌はジリジリと焼かれ続けるのであった。

汗が滝のように吹き出てきて、水を飲まねば危険だと諦めかけたそのとき。

「出た!」

息子が叫んだ。

池の上を高速で漂っていた白銀の影が、芝生の上へと軌道をこぼした。

渾身の力で網を振るも、時速70キロとも言われるその影を捉えることはできない。

嘲笑うかのように我々の間を縫って飛ぶギンヤンマ。空を切る網。

5分後父(私)のスタミナは早々につきた…(3分だったかな)。

水分と戦意を失い日陰に座り込む父を尻目に、息子は依然猛々しくギンヤンマを追い続けるのであった。

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あまりに無謀な戦いだった。

そのふらついた足じゃヤツに追い付けない。

その細い片手で網を振り回してるだけじゃヤツを捉えることはできない。教えた通り両手で持って腰をいれなきゃ。

そもそも相手は時速70キロで、お前はもう体力の限界だ。

息子よ、無理だ。

勝てない理由が多すぎる。

ふと時計に目をやる。

15分はたっていたであろうか。

もう限界だ。これ以上は熱中症のリスクもある。

説得しようと再び息子に目をやると、私の言葉より先に網を地面に投げ出し芝生に跪いている。

よく頑張った。誉めてつかわす。

3~5分で諦めた父の称賛がどれほど彼を慰めるかは分からないが、息子をだっこしに近づいていくと、傍らに横たわる網から

ジジジジ…

力強い振動音。

大地に向けて荒々しく呼吸を繰り返す息子の肩から、かすかな声がもれる。

「捕まえた…」

やりよったでこいつ

網の中には、あのギンヤンマがその攻撃的な羽音と共に、なおも力強く天に向けて羽ばたかんと網を繰り返し隆起させているのであった!

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ちょっと待て。

息子が勝ったのは、ギンヤンマだけではなかったのではないか。

息子の「執念」は、父が胸に抱いていた「常識」も見事に打ち破ったのであった。

私は彼よりも30年以上長く生きている。

彼よりも30年以上長く蓄積された私の「経験」は、脳内で容易に、そして瞬時に「諦める理由」を複数個はじき出した。

私は、この場面では諦めることが「論理的な結論」だと思っていた。

息子の執念は、その全てを痛快にぶち壊したのだ。

私は恐らく「諦める」という結論ありきで思考を巡らせた。

一方息子は捕まえられると信じて足を止めなかった。

子供の思考はその大部分が、とても豊かな想像力で構成されている。

見たい景色だけが超ドアップで脳内の大画面に投射されている。

大人は、パソコンの画面のように複数のウィンドウを開いて、多様なソースにあたりながら意志決定を図ろうとする。

よく検索されるサイトは「常識」であり、「経験」であり、「効率」や「合理性」だろう。

ただよく見ればそれらは単に「保身」や「自己弁護」のために寄せ集められただけの、もっともらしく仕立てられた屁理屈だったりする。

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思い返せば私の説教は常に「こうすればこうなるってわかるでしょ!先を考えて行動しなさい!」だ。

論理的に考え、未来を正しく予測できる大人になることが善だと信じているからだ。

それは間違ってはいないと思う。

親が子供に転ばぬ先の杖を授けようとするのは恐らく本能だ。

でも息子がその原理に乗っ取って動いていたら、今虫網の中にギンヤンマはいない。絶対に。

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ギンヤンマを追いかける息子のあの目の輝きを思い出すたびに、

ギンヤンマを捕まえたあと、芝生に寝転び天を仰ぎ、高らかに全身を打ち続ける脈に身を委ねながら喜びを噛み締めていた息子のあの横顔を思い出すたびに、

何かに対して申し訳ないような気持ちになり、胸が締め付けられる。

あの輝きは私が人生のどこかで棄てたものであり、棄てきれずに私の中でくすぶり続けているものであり、日々私が息子から雄弁に奪い続けているものなのではないか。

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わざわざ私か奪わなくても、いずれ「社会」が確実に息子の目からあの輝きを奪いに来る。

私はせめて頑張って頑張って奪わない者として息子の横にいてあげたい。

人為的に奪うことはできても作り出すことが絶対にできない、宇宙だけが産み出すことができる奇跡のようなその輝きを、

邪魔することなく特等席で見ていたい。

これが本心だ。

そして息子がいつか人生に迷ったときは、公園で彼がギンヤンマを捕まえたあの夏の日のことを語ってあげたい。

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