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ビルの海の底で会う【小説・約3000字】

 早足に改札を出た。いつもは下りない、家の最寄りから二つ手前の駅だった。夜七時を過ぎ、構内は帰宅途中の会社員や学生であふれかえっている。人の間を縫うようにして駅を出る。
 地元と違ってこの駅の周辺は大きな百貨店や駅ビルがあるのでいつ来ても人が多い。甘いカフェラテ片手に道幅の四分の三を占拠する大学生グループの脇を、肩を丸めるように通り抜けて雑居ビルに入った。
 大人が二人乗っただけで気まずい距離になりそうな、狭いエレベーターに乗り込む。五階に着く。視線を上げる。
 暗闇の中に大きな水槽が浮かび上がっていた。ひれがやたらひらひらした金魚が悠然と泳ぐのを青い光が下から照らしている。少ない照明のせいで水槽の枠が闇に溶け、暗い色の壁を背に、金魚が宙を泳いでいるように見えた。
 壁に小さな文字で『Blue Hands』とある。
 水槽から離れ、フットライトを頼りに奥へ進むと受付がある。マスクで顔の下半分を覆った黒いシャツの店員に予約している旨を告げる。店員はタブレットを操作した。液晶のバックライトがいやに白く眩しい。
「奥へどうぞ」
 鍵とドリンクを受け取り、さらに暗い廊下を進んだ。明かりは全て青で統一されている。足元で客を導く明かりも透き通った海のような青だ。一歩進むごとに暗い海へ沈んでいく心地がする。
 鍵に記された数字と同じものを掲げたドアを見つけ、中へ入った。ここは廊下よりも明るい。内側から鍵を閉め、ようやく肩の力を抜いた。
 籠に上着と鞄を放り込む。ドリンクを奥行きのないテーブルに置いて、椅子を引いて腰かける。その正面は、上半分がアクリル板の壁だ。この狭い個室に入るたび、刑務所の面会室のようだと思う。では自分は誰に面会するために来ているのか。
 テーブルの下の引き出しを開けた。中には布製のグローブが一対入っている。水色のそれを両手にはめると、手が二回りも大きくなった。
 テーブルの黒いスイッチを押す。さあっと照明が落ちた。頭上から深い青の光が帯になって揺れる。部屋はまるで海の底のようになる。
 かすかに水音が聞こえた。優しく波がさざめいている。やがて浅い海面からごぼごぼと音を立てて沈んでいき、鮮明だった音がこもったものになり、まるで水で耳をふさがれたような感覚になる。
 アクリル板の向こうは光の届かない海の底、その闇に一対の手が浮かび上がる。手首から先だけの、均整の取れた両手が指先を奥に向けている。電子的な水色だ。軽く右手を振ると、アクリル板の向こうで右側の手が揺れる。グローブの動きと連動しているのだ。
 グローブの両手を握る。開く。ゆらゆらと振ってみる。海の底で、水色の手がほとんどタイムラグなしに同じ動きをする。
 やがて水色の両手の向こうに、まるで鏡合わせのようにもう一対の手が現れた。同じく電子的でわずかに色が濃い。薄青と言うべきか。指先をこちらへ向けている。
 そっとグローブの手を差し伸べた。水色の手が恐る恐る前に進み出て、正面に浮かぶ薄青の指と出会う。
 薄青の手は微動だにしない。
 早まったか、と水色がためらいを見せた直後、目覚めたように薄青が動き出した。自らに触れた指先を優しく包むように握った。
 水色の手は小さく身じろぎする。動きを察した薄青は指を離した。水色が掌を上にして両手を差し伸べると、ためらうことなく薄青は手を重ねた。水色はきゅっと握る。薄青も握り返した。
 じわじわと喜びがこみあげてくる。グローブの中で生身の手が熱くなるのを感じる。無意識に息を止めていたことに気づいて、ゆっくり深呼吸した。
 あれは、あの二対の手は、アクリル板の奥の暗闇に据え付けられた液晶画面に映し出された架空の存在にすぎない。
 グローブを手にはめて動かすと、液晶の中で手が同じ動きをする。それだけだ。グローブには動きを感知するセンサーが内蔵されているが、液晶の中で誰かと触れ合ったところでそれをフィードバックする機能など持たない。グローブの中で皮膚感覚を再現するとか、そんな高度な技術は施されていない。
 それでもあれは私の手だ。私の手が、薄青の手と触れ合っている。
 薄青の手は私の左手を両手で受け止める。右手で優しく握りながら、左手で私の手の甲を覆い、さらさらと撫でる。私はそれを現実のものとして受け止める。グローブの中で、私の左手は甲の皮膚を撫でる指の繊細な凹凸を感じている。そこに存在しない柔らかな熱でさえも。
 私は空いた右手で薄青の左手に触れる。指先で少しだけ触れ、様子をうかがう。薄青が応じる素振りを見せてくれたので、手を広げて真正面から掌を合わせ、指を絡めた。指と指とが互い違いに絡み、股の薄い皮膚に同じく薄い肉のほのかな熱を感じた。
 感じながら、私の両目に涙がにじんでいる。
 手がふさがっているので拭いようもない。熱い涙の雫は目元から流れ落ち、私の頬を濡らす。すうっと滑り落ちた涙の軌跡も熱かった。
 暗い海の底で両目を閉じる。ゆっくりと息を吸い、ふうっと吐いた。私は、私たちは長いこと手を握り合っていた。
 BGMが変わった。大きな空気の泡を吐き出しながら浮上する。それがさざ波に変わったとき、そっと瞼を開いた。
 もはや二対の手は消えていた。不格好なグローブの両手だけが、空を握るように残されていた。
 放心したように正面のアクリル板を眺めていた。もうそこには誰もいないことがよくわかっているのに、すぐには動き出せなかった。
 のろのろとグローブを外す。冷たくなった頬をぬぐった。時間はあまりない。薄明るい照明の下で軽く化粧を直す。外はもう暗いし、涙の跡が目立たなければそれでよかった。断熱カップのコーヒーは冷めていたがこの場で飲み干すのを諦め、帰り支度をして部屋を出た。
 暗い廊下を歩く。一歩進むごとに深海から上昇し、現世へと近づいていく。鍵を受付に返却し、店員の礼に見送られて外へ向かう。
 エレベーターを待ちながらコーヒーを飲んだ。中途半端な温度で、美味くも不味くもない。
 空いた左手をぎゅっと握ってみた。皮膚の表面に、存在しない温もりがまだ残っている。この世で唯一、自分を援けてくれる架空の触れ合い。
 生きた人間では駄目だった。手を触れさせ合うような相手などいない。仮に、誰か許してくれるような人がいたとしても、自分はきっと辞退するだろう。
 友人や同僚に物を手渡すとき、わずかに指先が触れ合うことがある。そんな偶発的な接触さえも本当は避けたい。皮膚が接触した瞬間のざらついた感触、言いようもなく不愉快な熱。それらが自分の中で上手く処理できず、一瞬の不快がいつまでも体に残っている感じがするからだ。
 しかしあの手は。
 暗い底で本物ではない手が触れ合う、あの体験は、生の感覚に臆する自分のような人間には『本物』以外の何物でもなかった。
 誰にも伸ばせない手を受け止めてくれ、気兼ねなく触れ合うことのできる手。
 あの手がかろうじて自分をこの世に繋ぎとめてくれている。



毎日会社行って大したこともしないで家に帰るだけの、
判で押したように同じような日々を送っているのはなんだか不毛で無暗にメンタルが追い詰められるので、
思いついたことを書くだけ書いてみたんだが、
たぶんこういう場所があったらいいなというSF的願望がどこかにあったのだと思う。


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