ひと

わたしたちに神様はいるだろうか。いつからか、いつだってそんなことを考えて。
いつか救いが来るように、いつか許しを得られるように、そんなふうに生きてきました。
暗い夜には部屋の明かりを灯して、必要な光のある世界を作りました。
それを外から覗けば、私たちのそれぞれの暮らしにそれぞれの色の光が宿って、まるで神様のいる部屋、ステンドグラスを思い出しました。

思い悩み、思考の限界に到達してしまいそうなとき、わたしは信じてもいない「神様」という言葉を使って、自分をなんとか他人事に仕立て上げました。
こんなわたしをわたしが作ってしまったのではなくて、神様が作ってしまったの。この悲劇はわたしのせいではなくて、誰かのせいなのだと責任逃れをしています。
そしてふと、神様という言葉を使うと大袈裟でこわい、と言われました。わたしが発する言葉はどれも大袈裟で、だけれど一つも大袈裟じゃあ無い。こんな世界を生きるためにはこんなに大きな言葉が必要だったから、だから言葉を選んだのに。
むずかしかった。自分の力ではどうにもできなかったことを全て運命と呼んでみたり、自分で手に入れたものは実力だと信じてみたり。都合が良くて浅はかな人間という生きものなのだから、落ちていくことに怯えつつ生きるしかなかったのです。

永遠がないというのもそれのひとつで、運命なのだから抗えないときめて、みんなして生きてきました。悲しいことではないのだけれど、それを悲しむ人だっていました。だけれど、ほんとうは
ほんとうは、永遠はできる。わたしは気づいていました。永遠という現象はきっと、存在したとしても証明ができない。わたしたちが有限だから。永遠というものに置いていかれるほかない、瞬間の生き物たちだから。わたしたちのはじまりとおわり、前や続きを知ることはできないままです。
だけれど、永遠という行為はできます。わたしが永遠をすれば、たった一度だけ触れたあの日が終わることなくあり続けます。それは時間が延長線上に拡張されるような永遠ではなくて、瞬間そのものが存在しつづける。わたしが最後のまばたきをして、ふかい眠りについたその先にも、存在し続けます。だって、わたしだけが世界だったから。
ひとは、未来のことを考えたり考えなかったりして、ゆるやかに放棄しました。信じたいけれど不可能だった、なんてまた語るけれど、それは神様のせいではなかったでしょう。

だけれど、永遠はできるよときみに、きみにつたえたら、きみは目の前からいなくなってしまった。永遠にいなくなってしまった。さよなら。

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