覚えていてね

どうしても、あの人には死ぬことを選ばないで欲しいなと祈ったけれど、それってすごく酷いことだなと夜が明けてから一人でそっと思った。だから、花瓶の水をかえた。わたしのくらす部屋。廊下には花瓶が10個ならんでいてそれぞれの花々から爽やかな匂いがする。しんとした廊下、冷たい廊下。裸足でペタペタとあるけば、これがまるであの世への道のようで緊張する。花に囲まれた生活。春が近くに来ている。天国に似た春が。

ところで、あの人は今日も孤独だろうか。音楽は、文学は、どこへ行ってしまったのだろう。どうか彼のそばにいてほしい。よそ見をしないで、どうか彼のそばで彼のことを守ってほしい。お願い音楽。お願い文学。わたしは深呼吸の音、内蔵が膨らんでまた凹むのを、ただ淡々と感じながら、天井にむかって知らない人の自己紹介を音読する。明け方、まだ町には音が少ない。

この時間なら聞こえましょう、神様。わたしはここです、わたしはここです。

毎日いい子に暮らしていたら、なにかいいことはあっただろうか。お願いごとだって聞いて貰えただろうか。ああわたし、毎日いい子にしていた。このお願いだけ聞いてもらうために、ずっといい子にしてた。だからなんにも間違えないで今日までやってこれたのよ。だから、あの人は今日もさびしい。ごめんね。あの人の迷いが浮かぶ数分間の滞在は、すぐに壊れてしまいそうでかなしい。抱きしめて眠るいのちくらいは長く続いてくれますように。少なくともわたしのいのちよりは長く、続いてくれますように。

風鈴がある、夏からぶら下がったままの風鈴。風鈴は雪にも音を鳴らして話しかけていて、そんなんじゃあ疲れてしまうでしょうとわたし、それを毎日みているだけ。助けてなんかあげなかった。だってあの人に似ていたから。あの人だってそう、だれにも触れられず気づかれないところでこっそりといのちをしていればいいのに。そうでないから、いつも傷だらけ。わたしたち、いつも傷だらけ。これが良く似合うよね。音を鳴らして生きている。音を鳴らして生きている。生きているよと鳴らしている。神様にも聞こえる音で、いまも。

揺れる。揺れる。青く透けた視界からオレンジの肌が覗く。ザラザラとした夏に似ている、冬のひと。あのとき、わたしを一人にしないために駆け込んでこの世にやってきてくれた。だからわたしはあの人を一人にしないために文学を信じる。ラブレター  だれにも譲らないよ、何度も言ったけどまた言うこと。どうか尊いままでいてね。どうか安売りしないでね。春がきても、悲しまないでね。春がきても、生きていてね。

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