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勝手な考察-国立新美術館:「遠距離現在 」①


はじめに

乃木坂駅構内から直接向かえる国立新美術館。無機質な地下鉄からエスカレーターを登ると、太陽が美術館の美しいフォルムを照らし出す。

何を見にきたかと言われれば、何も見にきてないと答えよう。

美術館に自分がいること自体が、なんだか一味違う自分になった気がするのだ。

こそばゆい嬉しさが胸の内から出てくる。

歩いていると、複雑な多構造の中一際目についたのが、遠距離現在の文字。

「ああ、確かに」

考えるよりも先に、納得が出てきた。

テクノロジーの発展は人類に空間を超越する能力を授け続けてきた。象徴的なのは、時間的距離という単語であろう。もはや距離は絶対的なものではない。だが、

「遠距離現在」

この言葉は久しく忘れていた遠距離の感覚を思い出させるのには十分すぎる。

「現代において遠距離を謳おうだなんて」

私はその力強さに引っ張られるように中に入っていった。

白塗りの壁を少したどると、オブジェと共に三つの映像が暗闇の中に佇んでいる。

井田大介氏の「Fever」「誰がために鐘が鳴る」「イカロス」だった。

井田は彫刻という表現形式を問いながら、目には見えない現代の社会の構造や、そこで生きる人々の意識や欲望を彫刻・映像・3DCGなど多様なメディアを用いて視覚化している。

展示:遠距離現在における作品紹介

「目には見えない現代の社会の構造」

この点で勝手に解釈してたい。

#注意
私のような無知者の言葉で芸術が形容されて良いはずがないが、この感動をどうしても伝えたい。

だから、ここにあるのは私の独り言だけだと認識していただきたいのです。

どうかお付き合いください。


「Fever」

「Fever」では暗闇の中で腕を掲げた人形の像が2人の人間によって炙られている。

ここで、像の気持ちになってみよう。きっとこんな感じのことを思っているのではなかろうか。

「ああ、やっと終わった。長く苦しい挑戦であったが最後には大団円で締めくくることができた。自分の情熱に従ってよかった!」思わずガッツポーズが出てしまう。

だが、私たちは知っている。その熱が外部の人間によって供給されていたのだと。

これが、「炙り」に対する私の解釈である。

自分の熱が、自分のものではなかったということは、絶望を感じさせるのには十分すぎるだろう。

さらに、これは炙っている者=熱の供給者についても当てはまる。

突然照明がついたところで、供給者が炙るのを止め、この作品は終わる。

それでは、この照明をつけるのは誰がやっているのだろうか。

照明が消えれば炙り、点けば止める。

結局、供給者も照明をつける者によって動かされているに過ぎない。

そして、このテーマは3つの作品で終始一貫している。

「誰がために鐘は鳴る」

イギリスの詩人、ジョン・ダンの説教の一節であり、数多くの作品に引用されている。

偉大な小説家のアーネスト・ヘミングウェイから日本を代表する漫画ワンピースまで。

それは、他者の死に対する自分自身の悲しみを謳う。

弔鐘は亡くなった人のみのためでない。同じ人類として、他者の死に悲しみを覚えるであろう貴方の為にも鳴っているのだ。

そんな名言を題名として持つ本作だが、まずは見たままのことを考える。

映像には、キャンプで使われる小型ガスバーナーコンロが置かれており、その火の上を紙飛行機が飛んでいる。

疑問に思ったのは、紙飛行機が円形に配置されたコンロの上から離れないことだ。

紙飛行機といえばどのような印象を持つだろうか。

飛んでいる紙飛行機が青空の下で悠々と飛ぶ姿は自由の象徴のように私には思える。

しかも、一部の上手い人を除けば、紙飛行機はどこにいくか分からない挙動をする。

だから、上手く飛んだ時感動を覚えるのだろう。

しかし、この映像に映っている紙飛行機は円の外からはみ出すこともなければ、途中で落ちることもない。

決められたレールの上にただずっと飛ぶだけである。

そこに感動はあるだろうか。

思わず紙飛行機に自分を投影してしまい、頭がグワンと揺らぐのを感じる。

「この飛行機はお前だ」

そう作品が語りかけてくる。

だから「誰がために鐘はなる」なのだろう。

自分自身の人生を見つめ直させてくれる。そんな作品なのだなと、立ち去ろうとしたその時、

「んっ?」

何かが引っ掛かる。

問題は、飛行機の部屋がそれ以外何もない空間だということだ。

つまり、もし飛行機が円の外から出ていくと、墜落以外の道はない。

そこに現代社会の寓意を感じ、ゾッとした。

私たちは今ネットに管理されていると言っても過言ではない。例えば、パーソナライズされた広告が表示され、無意識下でそれを買ってしまうなどだ。

しかし、一方でネットが無くなったら私達の生活はままならない。

もはや、家畜のように支配される状況を甘んじて受け入れなければならないのだ。

この視点で見ると、もはやこの作品は人生を見つめ直すなどというものではない。

そこにあるのはただ絶望だけである。

私には井田氏がどこまで意図しているのかは分からない。

もしかしたら将来の展望、だけで終わるのかもしれない。

だが、もし絶望の意味だったなら?

そして、次の作品もこの憂慮の解消を許さなかった。

「イカロス」

燃えたぎる火の力で気球が空を飛んでいる。しかし、燃えているのは本来人が乗るはずの籠の部分だ。

これが今回の展示で井田氏最後の作品である。

イカロスの神話と同じく、太陽に向かう気球は文字通り身を焦がし消し炭へまっしぐらだ。

「誰が為に鐘はなる」のように、「火=エネルギーは外部からの力であるのだ!」と叫んでいるようにも見えるが、重要なのはどちらかというと気球がそのエネルギーによって死んで行くことだ。

イカロスの神話を考えると、それは行きすぎたインターネット社会と、それを盲信する私達に対する警告だ。

一方で、一度火をつけられた気球にはどうしようもできない。

唯だ死を待つのみなのか?

そう思わざるを得ない。

最後に

井田氏の表す現代社会。私達は構造によって操られているのか?そう問わざるを得ない時間であった。こんなメンディッシュが、まだまだ楽しめるのか!そして次のブースへと足を運ぶ。

(このようなことを書くのは人生で初めてで、かなり長くなってしまいました。作品全てに対する感情を発散させたかったのですが、つくづく自分の文才のなさに呆れます。こんな文に興味を持ってくださり、ありがとうございました。)






























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