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本の記憶。ロバート・フランク写真集

わたしのプライベート図書館は【沈黙図書館】という。同名のブログをアメーバでやっているから、名前だけは知っている人もいるかもしれないが、実在するライブラリーである。それで、いきなり下世話な話になるのだが、ここで一番高い本はなにかというと、ロバート・フランクの写真集である。 わたしの図書館には勘定したことはないのだが、蔵書が一万二千冊くらいあるだろうか。そのなかでアマゾンで調べた限りだが、一番値段の高い本はというとこれ。

写真集全体 01

たて36センチ×よこ27センチの箱に入った写真集。
『私の手の詩 ロバート・フランク/ Robert FrankThe Lines of My Hand』

写真集背中 jpg

黒い布張りの箱に入っている。

アマゾンにはこの本が二冊、売りに出ている。一冊は20万円、もう一冊は100万円の値が付いている。通常、古書店ではこの本、35万円くらいで店頭に出るらしい。イギリスのオークションでは5千ドルから8千ドルで落札されるという。一冊100万円はヨタではないのである。この本にはこういう紹介文がある。
★★★
1972年刊行のLustrum社版「The Lines of My Hand」(後にPantheon社から復刻新版)に続いて刊行された日本版。Robert Frankが元村和彦に渡したダミー本をそのまま活かした体裁は先行したLustrum版と全く別の本と言ってよいほど異なる上、刊行は遅れたものの企画では本書のほうが先となる。ダミー本を見た装丁担当の杉浦康平は「いいもんだ、このままいこう」と元村に言ったという。(注記※1)なお本書奥付の発行日は1972年10月30日となっているが、実際の発行年は1973年3月。元村が初めてFrankに出会った1970年10月30日と日付を合わせたのだという。表紙写真には2つのバージョンが存在し本書は「Platte River, Tennessee」。付属の冊子には、埴谷雄高、松本俊夫、重森弘淹らによるテキスト。杉浦康平と辻修平によるブックデザイン。簡易輸送函付属。輸送函に軽微な痛み。本体は良好。■注記※1…僕が版権をとったんですが、昨年ニューヨークのラストラム社からソフトカバーのものを出していいかという相談があって、フランクさんも経済的にいろいろあるでしょうから、OKしたんですーカメラ毎日1972年11月号「フランクの仕事に魅せられた元村和彦氏の情熱」より

★★★
元村和彦さんとは何者なのか。
『日本美術年鑑』平成27年版の508頁)にこういう記載がある。
★★★
元村和彦は、出版社邑元舎を主宰し、写真集の出版を手がけた写真編集者。
1933(昭和8)年2月11日佐賀県川副町(現、佐賀市)に生まれる。51年佐賀県立佐賀高等学校を卒業後、国税庁の職員となり佐賀、門司、武蔵野、立川、世田谷の各税務署に12年にわたって勤務する。60年、東京綜合写真専門学校に3期生として入学、卒業後引き続き1期生として同校研究科に進み、校長の重森弘淹、教授を務めていた写真家石元泰博らに師事した。
70年、W.ユージン・スミスが日本で取材した際に助手を務めた写真家森永純の紹介で、スミスと知り合い、スミスの写真展「真実こそわが友」(小田急百貨店他)の企画を手がけた。同年秋に渡米、スミスの紹介で写真家ロバート・フランクを訪ね、写真集出版を提案し同意を得る。71年、邑元舎を設立し、72年10月、『私の手の詩 The Lines of My Hand』を刊行。杉浦康平が造本を手がけた同書は、フランクの16年ぶりの写真集として国内だけでなく海外でも広く注目され、後に一部内容を再編したアメリカ版およびヨーロッパ版が刊行された。その後フランクの写真集としては、87年に『花は…(Flower Is…)』、2009(平成21)年には『The Americans, 81 Contact Sheets』を刊行した。邑元舎からは他に森永純写真集『河―累影』(1978年)が出版されている。97年、邑元舎の出版活動に対して、第9回写真の会賞を受賞。
20世紀後半の最も重要な写真家の一人であり、58年の写真集『アメリカ人』が、その後の写真表現に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画製作に移行して写真作品を発表していなかったロバート・フランクに、元村は新たな写真集を作らせ、結果的にフランクに写真家としての活動を再開させることになった。これは写真史上特筆すべきものである。フランクとの親交は生涯にわたって続き、写真集の原稿として提供されたものの他、折に触れてフランクより贈られた作品等により形成された元村のフランク作品コレクションは、元村の晩年、東京、御茶ノ水のギャラリーバウハウスにおける数次にわたる展示で紹介され、その中核である145点の作品が、16年に東京国立近代美術館に収蔵された。2014年8月17日に死去した。享年81。

本村・フランク写真 01 

在りし日のロバート・フランクと元村和彦さん。
ロバートフランクさんも先日亡くなられたことを新聞で知った。
じつはこの本はオレが元村さんから贈呈された本である。
どういういきさつがあったのか。

昔の資料を整理していたらこんな宅急便の伝票が出てきた。

元村伝票 01 

この写真集の編集者だった元村さんがオレ宛に『私の手の詩』を贈呈してくれたときのものだ。発送の日付が17年12月3日とあるが、これは2017年ではなく平成17年、2005年、つまりいまから13年前のものだ。こういう文面の手紙がついていた。

元村 塩沢宛手紙 

元村さんと知り合いになったきっかけは私が上梓した『KUROSAWA』という日本映画のノンフィクションだった。確か、手紙をくれて「とても面白い本だが、誤植が多い。校正を手伝ってあげます」といってくれたのである。『KUROSAWA』は全三巻、2004年の刊行で、オレのフリーランスのノンフィクション作家としてのデビュー作になった作品、これも茉莉花社=河出書房新社・連合軍から出版された書籍なのだが、とにかくスタッフが揃わず、私もマガジンハウスを独立して本格的に書籍出版に取りかかったばかりで、
誤字誤植だらけの本を作ってしまったのである。元村さんは、それを見かねて連絡をくれたのだった。オレはそのとき、いまやその無知を恥じているのだが、当時はネットでの検索もいまほど完全ではなく、元村さんを物好きなおじいさんが協力を申し出てくれたぐらいにしか考えず、『KUROSAWA』の第三巻「撮影現場篇」の校正をお願いした。
『KUROSAWA』は全三巻の作品なのだが、元村さんのおかげでこの本だけ誤植がほとんどないのである。それでも、元村さんにも見落としがあり、あとから「申し訳ない」という手紙ももらったが、それどころではなく、確か無償で校正を請け負ってくれて、オレが「いくらお払いすればいいですか」と聞いたら、「お金は要らない、このあともいい仕事をしていってください」といわれて、感激したのを覚えている。
手紙はそのときにいただいたものである。
そのとき、もちろんロバート・フランクという写真家の名前はオレも知っていたが、その人が写真の世界でどういう役割を果たした人なのか、元村さんがロバート・フランクとどういう関係にあるのか、そういうことまでは知らずにいた。写真集は私のライブラリーのコレクションテーマの一つで、いろいろな人の写真集を持っているが、ロバート・フランクの写真集はなかった。なかったというか、どこにも売っていないのである。
写真集の序文を埴谷雄高、装幀を杉浦康平がおこなっている。
50年近い昔の出版だから、もちろん、新刊本はもう手に入らない。
とんでもない値段がついているということは要するに、それだけの価値があり、売り物がほとんどない本だということなのだろう。

写真 現物 jpg

たとえばこんな写真である。
ロバート・フランクの写真はとにかく構図が意味深く、テーマが重く、訴えかけてくるものがリアルな迫力に満ちている。アメリカの写真の世界に革命をもたらしたフォトグラファーといわれているが、写真集の頁を順に見ていくと、軽くトレンディで美しい写真が全盛だった戦後のアメリカの写真界に与えた衝撃が連想できる。愚かにもわたしは、元村さんからいただいたものの重要さをそのとき、知ることが出来なかった。いただいた写真集に感動してお礼の手紙は書いたが、元村さんとの付き合いはそれ以上ひろがらなかった。先日、クロネコヤマトの発送伝票を見つけて、彼の人名を検索して、もう四年前に亡くなられていたことを知った。あらためて、元村さんの「シオザワさん、これからもいい本を作っていって下さいね、これはボクからのプレゼントです」という言葉を思いだした。ちなみにだが、ロバート・フランクさんも先日、亡くなられている。すべては歴史になってしまった。そんな気がする。心中は複雑。慚愧の想いに絶えず、これを書いている。
★★★
アマゾンでは一冊100万円するかも知れない。しかし、わたしにとっては値段の付けられない、お金に換え難い一冊なのである。

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