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ダン・ダグモアの最近のインタビューと名演10選

今回も70年代の南カリフォルニアのロックに関するお話。前回は、グラム・パーソンズとリンダロンシュタットの接点を軸に「カントリーロック」というスタイルが形成されていく過程での、実験的試みやそのルーツとなった音楽について検証した。

今回は、リンダたちが追求していた音楽が、「カントリーロック」という時空の限られたジャンルから、より普遍的なアメリカン・ミュージックへと変遷していった過程を、あるミュージシャンにフォーカスすることで掘り下げてみたい。そのミュージシャンとは、70年代中盤から80年代初頭のリンダ・ロンシュタットのバックバンドのギタリスト/スティールギタリストだったダン・ダグモアだ。

リンダ・ロンシュタット『Simple Dreams』(1977年)のジャケット中面見開きより。中央のボーダー柄がダン・ダグモア。

ダグモアは、同時期にリンダのバックを務めていたアンドリュー・ゴールドやケニー・エドワーズ、ワディ・ワクテルらに比べると、やや地味な存在だった。しかし、彼のプレイ、とりわけペダルスティールの演奏は、リンダを全米規模のシンガーに押し上げる上で重要な要素になっていたと思う。80年代には、ジェイムス・テイラーのツアーバンドの一員としても活躍。ギター、スティールギターに加えて、ドブロからラップスティール、マンドリン、バンジョーまでこなすマルチストリングス・プレイヤーとして、70年代半ば〜80年代初頭のカリフォルニア産の音楽、そして、90年代以降はナッシュビル産の音楽に貢献してきたミュージシャンだ。

今回、ダンを取り上げようと思ったのは、彼の最近のインタビュー動画がカントリーミュージック名誉殿堂博物館のサイトに先般(2024年6月末)アップされたから。これは、「ナッシュビル・キャッツ」というナッシュビルのセッション・ミュージシャンにインタビューする同博物館のイベント企画のひとつとして、今年の3月に開催・収録されたものだ。同博物館では、ロサンゼルスのカントリーロックを取り上げた企画展「Western Edge: The Roots and Reverberations of Los Angeles Country-Rock」も引き続き開催されており、LAとナッシュビル両方の音楽シーンを支えてきたダン・ダグモアは、まさにこの種のイベントに打ってつけの存在と言える。今回はそのインタビューで知った興味深いエピソードを紹介しながら、彼の経歴やプレイスタイルについて、いくつかの代表的名演とともに振り返ってみたい。

経歴:初期のカントリーロックに影響を受けてスティールギターを始める

今回久しぶりに見たダンの姿には、正直なところ幻滅感を禁じ得なかった。70年代当時、寡黙でナイーブな美青年という面影だったのが、今やお腹はでっぷり、顔の下は二重顎、髪は真っ白で、歩き方も心許ない。ただ、話を聞いてみると、今も現役のナッシュビル・キャッツ(ナッシュビルのセッションマン)として引っ張りだこのようだ。

今回の対談でのダン・ダグモア

ダン・ダグモアは1949年、ロサンゼルス郡パサディナの生まれ。生粋のLAっ子だ。最初に楽器を手にしたのは母親が弾いていたウクレレ。その後父親にエレキギターを買ってもらい、中高時代(60年代前半)にはサーフロックやトップ40を演奏するバンドでギターを弾いていたという。そんな中、ペダルスティールギターの音を聞いた彼は、すぐにその楽器に魅了された。ザ・バーズの68年のアルバム『Sweetheart of the Rodeo』(『ロデオの恋人』)でのロイド・グリーンのプレイや、フライング・ブリトー・ブラザーズのスニーキー・ピートらのプレイに惹かれたという。自分自身がスティールギターを弾き始めたきっかけについて、今回、ダンは次のように語っている。

スティールギターを最初に買ったのは、スニーキー・ピートからなんだ。実物を見てみたかったんだけど、LAじゃ何処にもスティールギターを置いてない。注文はできるって言うんだけど、楽器屋には置いてなかった。それで、アッシュグローヴに出演していたブリトーズの演奏を見に行った。セットの間にスニーキーに自己紹介して、どこかスティールギターを売っているところを知りませんか?って聞いたんだ。そしたら、彼が売ってくれるて言うんで、お金を工面して彼から買ったんだ。レッスンを受けさせてもらえませんか?ってスニーキーに頼んだんだけど、自分は独学で楽譜も読めないから教えられないって言うんだ。じゃあ、せめてチューニングの仕方とかペダルがどう機能するかとか教えてもらえませんかって言うと、彼はこう言うんだ。「俺はBのコードにチューニングしてる。手前のペダル2つ踏むと、これが90度上に上がるんだ」(笑)「えっ?」て感じさ。「バーを7フレに持ってくると、それで180度だ」「もう1回ペダルを踏んだら、それで360度だ」。(仕方がないから)「どうもありがとうございました」って、家に帰って自分で何とか方法を導き出したよ。

後になってリンダのバンドに入って、ケニー・エドワーズと飲んでる時に「スニーキーは角度について話してたか?」って彼が言うんだ。僕が「そうそう。からかわれてるのかと思ったよ」って言うと、ケニーは「いや、彼は音楽を物理的な円のように捉えてるんだ」って。2つペダルを踏むとコードが1度から4度に移る。バーを7フレに持ってくると5度、もう一度ペダルを踏むと8度。つまり360度がオクターブってことなんだ。

From the Country Music Hall of Fame® and Museum website video
Transcription and translation by Lonesome Cowboy (以下同)

当初誰からもスティールギターの手ほどきをしてもらえなかったダンだが、大学で音楽理論や弦楽四重奏の楽譜の書き方なども学んでいた彼は、特定の誰かにレッスンを受けるのではなく、自分なりに弾き方を確立していった。だからこそ自分のスタイルを作ることが出来たと彼は言う。もう一台のスティールギターをジェイ・ディー・メイネス(彼もバーズの『Sweetheart of the Rodeo』に参加していた)から買うようになった頃には、週に5〜6晩はクラブで弾くようになり、益々腕を上げていったようだ。その後、彼は元キングストントリオのジョン・スチュワートのバンドにリクルートされる。最初にクレジットされたレコードはスチュワートの2枚組ライブアルバム『The Phoenix Concerts』(1974年6月)。リンダ・ロンシュタットのバンドに引き抜かれたのはその頃だ。

僕たちが「アイスハウス」に出演していたとき、ケニー・エドワーズが見に来てたんだ。ウェンディ・ウォルドマンが僕らの前座で、ケニーは彼女を見に来たんだけど、僕がジョンのバンドでギターとスティールを弾いているのを見て、舞台裏に来てこう言うんだ。「リンダがギターとスティールを弾ける奴を探してるんだ。(前任者の)エド・ブラックがバンドを抜けるから」って。それでオーディションを受けて、ギグに出ることになった。その時、まだジョン・スチュワートのアルバムを制作中だったから、彼にスタジオでトゥー・ウィークス・ノーティス(退職2週間前通知)をしたんだけど、それが不味かった。もうちょっと待つべきだった。彼は激怒したよ。

出典・翻訳:同上

多少強引とも思える引き抜きだが、それがプロの音楽家稼業ということだろうし、もうひとつ伏線があったのは、ダンはジョン・スチュワートのバンドに参加する以前、まだクラブ回りをしていた時期に、アナハイムの1万人くらい入るスタジアムでニール・ヤングとリンダのコンサートを見て、「こんなのをやりたいんだ」と妻に語ったことがあったという。彼にとっては千載一遇のチャンスだったのだろう。幸いその後、ジョンとダンは、当時のことを笑って語れる中になったようだ。

Linda Ronstadt『Prisoner In Disguise』(1975年)

ダンがリンダのレコードに登場するのは、1975年の『Prisoner in Disguise』(『哀しみのプリズナー』)から。リンダのバックでの彼の演奏については後述するが、この時代はとても充実した時代(great time of my life)だったと彼は語っている。ツアー時には、24時間行動を共にする家族のようだったという。リンダは、それぞれのミュージシャンにソロパートを作らせるようにしていたといい、そういう自由闊達な創作環境とチームワークが、良い音楽を生む原動力になったことは間違いなさそうだ。そんな雰囲気を伝える興味深いエピソードも聞けた。

それ(『Prisoner in Disguise』と『Hasten Down The Wind』(1976年))以降のアルバムでは、(プロデューサーの)ピーター(・アッシャー)が気付いたんだ。リンダの歌はスタジオライブで録った方が映えるって。演奏だけ先に録って後からヴォーカルを乗せようとすると、バンドと一緒に演奏した時のような情感にはならないんだ。それで、1日に演るのは1曲だけにした。その代わり、スタジオに入る前に1週間はリハーサルして、スタジオでは1曲に集中するんだ。そして、これでよし!っていうのが録れるまで続ける。仮にバンドが完璧に演奏しても、彼女が完璧に歌えなかったら、それは使えない。誰かがミスしたら、全員が演奏をストップする。だから緊張感もすごいんだ。曲が中程まで進んだ段階で失敗したらと考えると。今までの素晴らしい演奏が無駄になるわけだからさ。

出典・翻訳:同上

ダンによると、ピーター・アッシャーはこのやり方をジェイムス・テイラーのレコーディングにも採用したようだ。ジェイムス自身もバンドと一緒に演奏しなきゃというタイプだったという。

もちろん、こういうやり方には予算も必要だよね。ここ(ナッシュビル)じゃ、何にしたってもっと素早くやらなきゃいけない。最初ここに来たときは、「どういうこと?」って感じだったよ。3時間に5曲って言うんだから。全然違うよ。

出典・翻訳:同上

ダン・ダグモアがナッシュビルに移ったのは、90年代初め。リンダは 80年代半ばになるとスタンダード集やマリアッチなど、メインストリームから離れた音楽を追求するようになっていた。ダンは、80年代を通してジェイムス・テイラーのレコーディングやツアーに参加していたし、ウォーレン・ジヴォンやデイヴィッド・クロスビーらの作品にも参加していたが、全体としてLAでのセッションワークは大きく減ってしまったという。スティールギターを必要とするような音楽は、時代に求められなくなったのだ。一方で、友人のギタリスト、ジョッシュ・リオは80年代後半にナッシュビルに移ってプロデューサーとして頭角を表していた。ナッシュビルでは、かつてのウェストコースト・ロックを再現しようとするような音作りが目立ち始め、ホリー・ダンやトリーシャ・イヤーウッド、スージー・ボガスら、リンダに影響を受けたか、彼女の歌い方を意識したような女性シンガーも台頭してきていた。ジョッシュ・リオは、ダンに「ナッシュビルに来たら使ってやるよ」と声を掛けたという。それから30年以上、彼は今もセッションミュージシャンとしてナッシュビルで活躍している。

ダン・ダグモア以前のスティールギターのプレイスタイル

今回のインタビューイベントの冒頭で司会のマイケル・マッコール(博物館の出版物担当ディレクター)も言及していたが、ダン・ダグモアのスティールギターの音は、典型的なナッシュビル産のスティールともウェストコーストのスタイルとも違う、彼自身の人間性を反映した音と言える。

ナッシュビルのカントリーミュージックの歴史は長いので、一言で「典型的なナッシュビル産のスティール」というのは少し無理があるかもしれない。したがって、この場合は、ダン・ダグモアが登場する70年代半ば以前のナッシュビルの有名セッションプレイヤーと考えてもらいたい。例えば、ウェルドン・マイリックバディ・エモンズロイド・グリーンといった人たちの音だ。ペダルスティールというのは、曲全体にある種の空気感をもたらす楽器だと思うが、彼らの音は、例えば、空のある程度高いところで刷毛で伸ばしたようにすじを巻いている巻雲のようなイメージだ。また、いわゆるハワイアン・スティールギターと同系統の音でもあるので、一定の年代の日本人には一昔前のハワイアン・スパリゾートのように感じられるかもしれない。ちなみに、バーズの『Sweetheart of the Rodeo』のオープニング曲「You Ain't Goin' Nowhere」のスティールはロイド・グリーンによるものだ。

一方、50年代後半から60年代初めにかけて隆盛を極めたカリフォルニア産のカントリー、いわゆるベイカーズフィールド・サウンドのスティールギターの音は、ナッシュビルのものに比べて、もっとパキパキした、乾いた風のような感じがする。代表的な演奏者は、いずれもバック・オーウェンスのグループで活躍した、トム・ブラムリージェイ・ディー・メイネスだ。

また一方で、カリフォルニア産カントリーロック創成期を代表するスティールギター奏者である、スニーキー・ピート・クレイナウ(フライング・ブリトー・ブラザーズ)やラスティ・ヤング(ポコ)などの場合、ベイカーズフィールド・サウンドの面影を残しながらも、ファズやキックを効かせた縦横無尽に吹く旋風のような演奏になっていた。

ダン・ダグモアの名演10選

もちろん、これらは典型例ということで、それぞれのプレイヤーがそれぞれの時代、曲に合わせてスタイルを変えてはいるわけだが、ひとつ言えることは、ダン・ダグモア以前のスティールギターはそれぞれの音楽において、ヴォーカルに次ぐ準主役に近いポジションを任されていたように思える。それに比べて、ダン・ダグモアの弾くスティールの音は、あくまでもヴォーカルの引き立て役に徹しているように感じる。実際、今回のインタビューで彼は、今も「シンガーの邪魔をしないよう注意している」と発言している。

01. Linda Ronstadt "Blue Bayou"(1977年)

ダン・ダグモアのスティールギターの演奏で、おそらく最も有名かつ評価が高いのがリンダのアルバム『Simple Dreams』(『夢はひとつだけ』)(1977年)からのファーストシングルで、全米3位のヒットとなったこの曲だろう。アメリカ南部のバイユーに残してきた恋人への想いを歌った曲だが、本来鬱蒼とした湿地帯エリアであるバイユーが月影に青く照らされて幻想的な趣を呈している様が見事に表現されている。ロイ・オービソンのオリジナルにはないこの「しっとり」感を演出する上でキーになっているのが、ダン・ダグモアのスティールだろう。3'07"あたりからの彼のソロは、前述のナッシュビルの高い雲のような音とは違う、地表や水面近くに漂う霧のような雰囲気だ。この動画はオーストラリアでのライブと思われるが、レコードとほぼ違わぬ音が再現されているのは、前述のダグモアのエピソードにあるように、レコーディング時点で既に完璧なバンド演奏が確立されていたからだろう。

02. Linda Ronstadt "Tracks Of My Tears"(1975年)

こちらは、ダン・ダグモアが最初にリンダのアルバムに参加した『Prisoner in Disguise』からのヒットで、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズのカバー。70年前後のリンダやフライング・ブリトー・ブラザーズらが60年代のR&Bソングをカントリー的なバンドアンサンブルで取り上げていたことについては前回の記事で言及したが、そういった「R&B meets country music」とでも言えるような実験的アプローチに比べ、このモータウン・クラシック・カバーからは、ブラック/ホワイトの垣根を超越した成熟度が感じられる。その演出の鍵になっているのが、アンドリュー・ゴールドとケニー・エドワーズによるハーモニー・ヴォーカル、そしてダグモアによる、決してカントリー的ではない、控えめなペダル・スティールではないだろうか。今回のダグモアのインタビューによると、この映像での演奏も一発録りだったという。

03. James Taylor "Carolina in My Mind"(1976年)

ジェイムス・テイラーがワーナーブラザーズ在籍時の集大成として76年に発表した『Greatest Hits』には、2曲の新録音が収録されていた。アップルからのデビュー盤(1968年)に収められていた「Something in the Way She Moves」と「Carolina in My Mind」の再録がそうで、何れの曲にもダン・ダグモアのスティールがフィーチャーされている。リンダのバンドで実力を認められたダグモアが、彼女のマネージャー兼プロデューサー、ピーター・アッシャーによって、やはりアッシャーがマネジメントとプロデュースを担当していたジェイムスの録音に起用された形だ。この曲はヨーロッパでホームシックに陥ったジェイムスが少年時代を過ごしたノースキャロライナに思いを馳せるものだが、ここでのダグモアのスティールは幾分「カントリー」的。とは言え、キャロライナの朝焼けや夕焼けを想起させるような澄んだ音で、遥か遠くの故郷を空想するジェイムスの気持ちを体現しているかのように聞こえる。ジェイムスがCBSに移籍した次作『JT』以降も、ダンは彼のセッションの常連となり、その後はツアーバンドの一員としても活躍した。

04. Karla Bonoff "Home"(1977年)

ケニー・エドワーズがプロデュースした、カーラ・ボノフのファーストアルバムより。こちらも故郷に思いを馳せる曲で、2'00"あたりから聞けるスティールソロは、上記のジェイムス・テイラー作品と同じような趣きを感じさせる。牧歌的ではあるが、決してイナたくないのが、彼のスティールの特徴だ。バックヴォーカルにはリンダ・ロンシュタットも参加。この曲は、近年のライブでもほぼ必ず演奏されている。彼女にとっても思い入れのある曲なのだろう。

05. Andrew Gold "Endless Flight"(1975年)

リンダのバックバンドでの同僚・アンドリュー・ゴールドのファーストソロアルバムから。ここでのダグモアのプレイは、「スティールギター=カントリーの楽器」というイメージとはおよそかけ離れており、いつ終わるとも分からない夜間飛行に不安をいだく主人公の心模様を表現するかのような幻惑的な響きに満ちている。ちなみにこの曲はレオ・セイヤーもカバーして、自身のアルバムのタイトルにもしている。

06. Pablo Cruise "Look To The Sky"(1976年)

サンフランシスコ出身のパブロ・クルーズとダン・ダグモアの組み合わせは一見以外に思えるが、この曲が収録されている彼らのセカンド『LIfeline』の共同プロデュースは、ピーター・アッシャーの右腕的存在だったエンジニア、ヴァル・ギャレイ。その人脈を考えれば、なるほどという起用だ。ここでのダグモアのスティールは、多少のカントリー風味を感じさせつつも、西海岸の青い空や爽やかな風を想起させる。もう一人これとこれと似たような音を聞かせていたアル・パーキンス(後期ブリトーズからマナサス〜サウザー・ヒルマン・ヒューレイなど)とともに、70年代半ばの「ウェストコースト・サウンド」を彩った音色と言えるだろう。ちなみに、ヴァル・ギャレイは、自身プロデュースのアルバムで度々ダグモアを起用、クレイグ・フラー/エリック・カズのアルバム(1978年)やリッチー・フューレイの『I Still Have Dreams』(1979年)などでも彼のギターやスティールが聞ける。

07. Stevie Nicks "After The Glitter Fades"(1981年)

スティービー・ニックス初のソロ作『Bella Donna』(『麗しのベラ・ドンナ』)から。発売当時このアルバムを聞いた時に少しホッとした気分になったのは、カントリー調のレイドバックした作品が多く含まれていたから。アリゾナで幼少期を過ごした彼女に多くのカントリーソングを教えてくれたというお祖父さんからの影響を感じさせる肌触りにも、マックでのスティービーとは少し違う親しみやすさを感じたものだ。とりわけこの曲でのダグモアのスティールは、スティービーのヴォーカルに寄り添うかのようで、彼女の素朴で可憐な側面を引き立てているように聞こえる。ただ、今回改めてアルバムのスリーブを確認して認識したが、ヒット曲「Leather and Lace」を含め、本作に収録されているカントリー調作品の多くは、マック加入前後の75年頃に作られたもののようだ。

08. Suzy Bogguss "Heartache"(1992年)

ダグモアは90年頃にナッシュビルに居を移すが、その当時、カントリー界では、70年代のウェストコーストロック的なエッセンスを取り入れたサウンドが活況を呈していた。リンダ・ロンシュタットを意識したタイプの女性シンガーも何人か現れてきていたが、その一人がこのスージー・ボガス。彼女の4作目『Voices in the Wind』では、かつてヴァレリー・カーターが取り上げたこのローウェル・ジョージ作品が冒頭を飾っていた。ナッシュビルに西海岸の空気感をもたらすというコンセプトを考えれば、ダグモアの起用はまさに適任だ。ちなみに、89年に出た彼女のデビュー盤のプロデュースは、やはりLAからナッシュビルに拠点を移したウェンディ・ウォルドマンだった。

09. Wilson Phillips "California"(2004年)

文字通りカリフォルニアロックの申し子、ウィルソン・フィリップスの3人が幼い頃に身近に(場合によっては目の前で)聞いていたカリフォルニア・サウンドをカバーした好企画アルバム『California』(プロデュースはピーター・アッシャー)から、アルバムタイトルともなったジョニ・ミッチェル作品。ここでのダグモアのプレイは、ほぼ、2'11"あたりからのワンフレーズのソロのみ。しかし、その一瞬のソロだけで70年代南カリフォルニアの空気感がもたらされていることは、感動的ですらある。ちなみに、ジョニのオリジナルバージョンでは、スニーキー・ピートがスティールを弾いていた。

10. Linda Ronstadt "Lose Again"(1976年)

今回の記事では、主にスティールギタリストとしてのダン・ダグモアにスポットを当てたが、彼はギタリストとしても、決して派手ではないものの、印象的なプレイを残している。中でも特に情感豊かと感じるのが、リンダ・ロンシュタットによるこのカーラ・ボノフ作品におけるソロ(2'12"あたりから)。リンダのヴォーカルも、このギターソロにインスパイアされて、より情感が高まったのではないだろうか。


今回のインタビューの最後にダグモアは、「最近の楽曲では、かつてのようにソロがフィーチャーされることがめっきり少なくなった」と語っていた。また、かつて(70年代〜90年代初め頃)は、いいスタジオミュージシャンには通常の倍(ダブルスケール)や3倍(トリプルスケール)のギャラが支払われることが多くあったが、今はそのような慣習はほとんどなくなったという。その一方で、業界が数十万ドルをかけてビデオの制作に勤しんでいるのは「フェアと思えない」と彼は言う。「ただ、それはビジネスのことなので、僕らにはせいぜい組合を通して基本料金を少しでも上げてもらうしかできないんだ」と彼は語っていた。セッションミュージシャンとして半世紀以上も米音楽業界に身を置いてきたダグモアの言葉に、この業界の遷り変わりを見る思いがした。

今回彼の足跡を振り返ってみて、改めて認識できたことがある。それは、それまでカントリーやカントリーロックの伴奏楽器と思われてきたペダルスティールギターをそれ以上の存在──曲のスタイルを問わず、ヴォーカリストの情感を大切にして曲の空気感を作り上げる楽器──に進化させたことだ。そういったサウンドプロダクションの背景には、70年代半ば〜後半という時代の要請もあっただろうが、ダン・ダグモアが優れていたのは、彼が「歌」を中心に考えるプレイヤーだったことだろう。そのことを実感できたインタビューだった。

番外編: Ronin "All I Can"(1980年)

最後にダン・ダグモアのヴォーカルを。ローニン(浪人)は、リンダ・ロンシュタットの『Simple Dreams』や『Living In the U.S.A.』でバックを務めていた、ワディ・ワクテル、ダン・ダグモア、リック・マロッタらが結成したセッションバンド的ユニット。キース・リチャーズ・フリークのワディがリーダー格だけあって、ルーズで泥臭いロックサウンドが魅力だった。アルバムの楽曲はほとんどがワクテルの作品だが、唯一ダグモア作のこの曲のレイドバックしたサウンドに、ミュージシャン人生のほとんどを歌伴に捧げてきた彼自身の音楽志向が垣間見れる。

ジェイムス・テイラー、リンダ・ロンシュタット、J.D.サウザーが揃って来日した『The California Live』(81年)のコンサート・パンフより。ローニンがこのイベントの最初の出演者だった。



※今回取り上げたダン・ダグモアのインタビュー(対談)の全編は、下記でご覧になれます。


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