#44 明滅する連続の中で

 あけまして、おめでとうございます。国道沿いの僕の部屋に、つかの間の静寂をくれた元日に感謝しながら、書いています。僕のアパートの前には居酒屋があって、平生は200人くらいの若者が騒いでいる気がするほどの騒音と熱気、国道の往来もひっきりなし、「喧噪を愛せ」という声を自分の中に立ちあがらせる日々でした。けれども、嗚呼、愛しき静寂=元日も、もう終わろうとしています。

  僕はこれまで、何かにつけて新年を迎えるたび、心持を新たにしようと心掛けてきました。清新なリセットとして、除夜の鐘からの「あの一秒」がある。そうして、真夜中にもかかわらず、何か新しいものが自分の内側、そして世界にも弾け、溢れていくのが分かります。実家の隣の神社ではたくさんの人々が(夜にもかかわらず)声を上げ、TVでは一斉に生放送で新年を謳っている。「時間を共有している」感覚と、新しく何かが始まるという感覚は、非日常の感慨そのものでした。”みんなで”「越える」感覚というのは心地よいものです。

 けれど、世界は一年で変わってしまった。人とコミュニケーションをとるのも、会うのも、移動するのも、憚られるようになってしまった。学校も、コミュニケーションも、システムも、社会も姿を変え、僕たちはその対応を迫られました。そういった意味で忙しく、時間と共同体が「溶けていった」ような一年だったと思います。

 

 少なくとも僕にとって、今年の年越しは一味も二味も違うものでした。家族と距離を取り、独りで雪の降りしきる寒いところの、ひどく狭い部屋でその時を過ごしました。けれども結果的に言うと、これはとても良い経験になったと思います。

 「あけましておめでとう」と眠い目をこすりながら父母に言うことも、毎年変わらない味のおせち料理も、父母宛ての年賀状の厚い束も、元旦の朝の清冽な空気もなく、ただいつもの如く一日を過ごすこと。

 それは、この元日という日が連綿と続いてゆく日々の中にあるという当たり前の事実を僕につきつけることとなりました。心はあたらしさを愛するけれども、身体は連続性のなかを通って生きてゆく。暦というのはじつは心のための周期なのかもしれないと感じられます。

 僕たちは、時間を管理したいと志向する。スケジュール帳に予定をたくさん書いてしまって、時間を正確に管理しているものと思い込む。けれど実際は、僕たちが決めたはずの時間が逆に僕たちのありようを定義しようとする。元旦は抗いがたい時間の過ごし方を、時間そのものを、僕たちに提唱する。

 僕たちは日々何者かと戦っている。世界は絶えず変容する。そしてその日々の連続の中で、心は澱を少しずつ纏ってゆく。僕たちはきっと、時間というものを意識するべきではないんだろう。それは生の縮減に繋がるかもしれない。時間を意識すると、現在ではなく、過去と未来ばかりが可視化されてしまう。イマを生きられない、手帳に生きる虚像に成り下がってしまう。身体を明け渡して、意識だけが虚ろに時間を測っていく。僕たちが戦っているのは、ひとつは「時間」の存在だろう。

 心の澱み、その明滅に耳を澄ますことこそ必要だと思う。月並みだが、心のままに生きられたら、それが理想だと思う。今年の僕は元旦を連続性のなかで捉えた。昨年と陸続きの僕で、僕は僕の心に遵って生きてみようと思う。しんどい、変化ばかりの世界だから、少しは変化しない自分があってもいいだろう。

 生命力は、根を張るその強さで決まっている。確かな感触をもった「ことば」と、柔軟に、へこたれない「在り方」をもって、少しずつ確実に生きてゆこうと思うのです。これ、新年の抱負になってますかね...?


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 綴り