#11「書くこと」
ある論文で、レイモンド・カーヴァーについて、「語る声を持たない弱者について書いている」と言う旨の記述を見た。それは主に、社会的に弱い位置にある労働者・貧民と言う文脈である。今久しく文章を起こしながら、自分が「語る声」を失くしつつあることに気付く。それは「書くこと」の欠如であり、自分と社会に対しての客観的洞察の欠如にほかならない。
忙しさの中に精神を摩耗し、ただ実用的な情報を取り入れながら、考えることは目先のことだけ…と言う生活をここ数か月続けていた。そのような日々の中でも、水底に幾日もかけて沈殿する苔のような、堆積的な考えがある。それについて何度かに分けて書こうと思う。
大学院入試に際して、研究の概要書の様なものを提出しなければならない。そこに7000字ほどの自らの研究の振り返りと、これからの研究姿勢について書く訳だが、自分はこれに思っている以上に苦心した。自分の言葉の少なさ、紋切り型の言葉のオンパレードで、書きながら辟易していた。自分がいかに、言葉に無自覚に生きてきて、他者の言葉を流用してきたか。自分の二流さ、というか芯の無さを思い知った。
「オリジナリティ」ということばを思い出す。独自性、とでも充てよう。僕にはそれが無かった。それが有る人はあるいは作家であり、芸術家なのかもしれない。オリジナリティはまぎれもない新奇さであり、個性であり、それが社会に受け入れられれば「古典」「クラシック」という名前に変わる。そしてオリジナリティはほとんどの場合反発を伴う。村上春樹はフランクな文体で彼の「思っているところ」がそのまま小説になっているようなものだが、文壇からは「こんなものは文学ではない」という強い向かい風が吹いた。
それは天性の、生得的なものではなくて、一つの想像の様な気がしている。自分の中に存在する情報、要素、素材を組み合わせる回路のような、ひとつのニューロン。思いがけない角度から、組み立てるたしかな力。
書かなければ、書くことはできない。何を言ってるんだとおもうけれど、これは僕にとっての真理みたいなもので、書き続けることで涵養され、書くことが精彩に立ち上がってくるような感慨がある。Isak Dinesenはこのように言う。
“I write a little every day, without hope, without despair.”
-Isak Dinesen
私は希望もなく、絶望もなく、毎日少しづつ書きます。そういう強さが、鮮やかである。書くことはすべての善悪を、心性を越えうる物理であり、超然とした、積み重なりである。だからぼくは非常にこれが好きだ。
「語る声」を取り戻せるよう、少しづつであるが書いてゆこう、と決意を新たに。