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[読録] 大江健三郎「セヴンティーン」

 十七歳の若い内面と、そこから見つめられる世界についてこの作品は徹頭徹尾描いている。「独りぼっちで不安で、柔らかい甲羅に脱ぎかえたばかりの蟹のように傷つきやすく、無力」な十七歳という時間と存在が語るのは、《右》という強い言葉によっての定型思考方式に見出される、行き場のない自意識の救済である。自分に無関心な父母と兄弟、自宅の物置小屋で自瀆する少年は、学校でも当然のように浮いている。日々が孤独と不安を育む。

 そこに《右》の演説のサクラをするという仕事を受けるわけだが、《右》の連帯を語る逆木原の暴力的な言葉が十七歳の自己意識に強く語り掛けることとなる。そこには間違いなく、その言葉の話者をも酔わせる強い言葉の暴力的な陶酔がある。言葉自体の持つ力への酔いだ。

おれは誓っていいが、あいつらを殺してやる、虐殺してやる、女房娘を強姦してやる、息子を豚に喰わせてやる、それが正義なのだ! それがおれの義務なのだ! おれは皆殺しの神意を背に負って生まれたのだ! あいつらを地獄におとすぞ! おれたちが生きるためにはあいつらを火焙りにするほかないのだ!…

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少年が《右》の鎧として身にまとったのは、こうした強固なことばによる殺人者・強姦者としての暴力的自恃であり、それはある意味での思考停止に他ならないことは言うまでもない。しかし、十七歳の空転し充満するエネルギーの消費先として、彼は切実にもなにものかを希求せざるをえなかったことは述べておかなければならないように思う。70年代の全共闘などは、まさにそうした倫理に支えられた運動だったはずだ。

 ここには敢えて書かないが、先の引用の論理がそのまま結論の「みな殺しのセヴンティーン」へと繋がってゆくことを鑑みれば、強い言葉への〈酔い〉が、主体の思考を奪ってゆくさまがここに描かれていると言ってよいであろう。
 その〈酔い〉に対してこれは酔いであるとわかるように書いているということが、言い換えれば、この少年をある意味客体的に描いている別の主体の眼が、そこはかとなく透徹していることが、この小説に深みをもたらしているように思う。

 第二部としての「政治少年死す」をこれから読んでいきたい。というか全集を買おうとか思っている。