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読んだもの断片記 4/10-4/28

 集中力がなく、数十冊の書物を日々齧り読みし、その度読了できないことを嘆く。そのように、遅々として前に進んでいないような停滞のさなかにも、確かに齧った知があるとするなら、それを記しておかぬ手はない。

 この記録は、そうした本と本との集中力のないスキゾな横滑りを、奔放に綴ろうとするものだ。書誌情報の他には、この卑小な読み手としての私が感じたことや考えたこと、あるいは、雑に何かと結びつけることもあるだろう。これは断片たちの適当な記録である。適当に続けていきたい。

 見出しにある本は、読了したわけではなく、触れた、という記録だ。読了した場合は、別にページを立てているので、そちらを参照されたい。



2024/4/10〜2024/4/28

 





0 坪井秀人『戦後表現 Japanese Literature after 1945』(2023、名古屋大学出版会)

 職場の昼休みに少しずつ読み進め、4月10日に第Ⅳ部の2章までやってきた。元々戦後詩で修士論文を書いたこともあり、戦後表現、というタイトルに撃ち抜かれた。本の装丁も痺れるほどセンスがいい。裁ち落としの写真は、背中に縦に入った創傷。少々お高くとも、これは戦後研究には必読の書なのである。
 戦後というのはダイナミックな時代で、坪井のいう白紙還元状態からさまざまな表現が生起し、押し拉ぎあっている。本書の射程は広く、また同時に精細であることに驚かされる。論じたいも丁寧な運びで、著者の知識、研究へ向き合う誠実さに打たれる。この日に読んだのは1960年代、開発の時代としての時代背景を整理し、高橋和巳に関しての論に入ろうというところだった。また続きを根気強く読んでいく本だ。




1 堀江敏幸『熊の敷石』(2004、講談社文庫)

 これは4月12日に読了した本。表題作「熊の敷石」に非常に苦戦していて、何日もこれに費やし、残りの収録作2作品に関してはすぐに読んでしまった。それゆえに表題作は曖昧な印象を残すのみとなり、今でも「砂売りが通る」と「城址にて」が鮮やかに思い出される。
 以下に、私がレビューサイトに投げた文章を貼り付けることにする。

記憶を巡る、ゆったりとした旅をしているような気分になる。表題作はフランスの風土と土地の逸話、ホロコーストの歴史に素材を借りたものだった。最後に主人公が感じる痛みは、さまざまな解釈の仕方がありそうで気になった。「城址にて」は個人的にお気に入り。「砂売りが通る」は他2作品より人物に焦点を当てたもののように思われた。子供の挙止、母親の抱える葛藤を第三者視点から巧みに浮き彫りにしようとするその試み自体に穏やかな優しさが映る。





2 朝吹真理子『きことわ』(2013、新潮文庫)

 これは4月13日に読了した本。『熊の敷石』と同じく、抽象的な印象を残す本で、苦労して併読していた。

貴子(きこ)と永遠子(とわこ)。葉山の別荘で、同じ時間を過ごしたふたりの少女。最後に会ったのは、夏だった……。25年後、別荘の解体をきっかけに、ふたりは再会する。ときにかみ合い、ときに食い違う、思い出。境がゆらぐ現在、過去、夢。記憶は縺れ、時間は混ざり、言葉は解けていく――。やわらかな文章で紡がれる、曖昧で、しかし強かな世界のかたち。小説の愉悦に満ちた、芥川賞受賞作。

amazon.jp 書籍紹介文

 印象画のような紹介文だな、と思うが、そのような小説なので仕方がない。町田康が解説文に誰もが見る夢としての「脈絡のゴミ」を、見事に小説にしてみせたと言うが、確かに夢のような、途切れがちな交響曲みたいな物語だった。
 髪の毛が絡まる、手足が絡み合ってわからなくなる、という身体の交錯に、どきりとさせられた。息がかかる、熱を帯びている、手と、足、それから髪の毛という身体的なリアリティが迫ってくるようで、良かった。

 どうでもいいことばかりを覚えていて、それが朧げになり、だんだん空白がちになって、そして嘘の記憶もそこに作り上げたりして、過去はどんどんとなくなっていくんだな、とも思った。(のちの、『真実真正日記』の記述に色濃く繋がっている)





3 町田康『真実真正日記』(2006、講談社)

 23ページまで読む。8ページに「日記の書きはじめ」として、いいことが書いてあった。

 他人にとって自分の人生がなかったことになるなどというのはそれは人間それぞれ忙しいから当たり前であるが、自分にとって自分の人生がなかったことになるというのは実に悲しいことだ。
 だから自分は日々のことを日記に書いておこうと思った。あとで読み返してそのとき自分がなにをしていたか思い出せるように。

町田康『真実真正日記』(2006、講談社、8ページ)

 書くことはもっとわがままで、自由でいいと言ってくれているようだった。何か良いものを書きたいと思って立ち止まっている時間は、無駄ではないかもしれないが、限りなく無に等しく、空費されていく悲しさがある。少しでも前に進む感慨、感触が欲しいものだ。
 町田康は真面目な作家だと思う。彼がこうして身銭を切ってくれることは非常にありがたいことだ。






4 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017、genron)

 これも以前から少しずつ読んでいた系で、この期間には第5章「家族」と、第6章「不気味なもの」を読んだ。
 ジェンダーでも、国籍でも、人類を程よく且つ精彩に腑分けできるものとしての家族の構想から、家族の偶然性へと駒を進め、「家族」という感情の連帯の在処を示している。ペットという枠組みも家族になる現在の家族の姿、生まれてきたものを愛するという無条件的な「誤配」をここ第5章で確認できる。
 第6章はギブスン『ニューロマンサー』(これも齧り読み中…)と、ディックの小説を比較するところから始まる、いささか文学的と東自身も指摘する論だ。サイバースペースという電脳空間が、主体の分裂を基調とした前時代SF的な意味を帯びているのに対し、主体の裏と表が渾然一体になったポストモダンの時代(「不気味なもの」の到来)は、東が第一部で主張してきた「郵便的マルチチュード」と重なってきて、非常に綺麗な感触を覚えた。
 まだ理解が甘いところがあるため、通読したのちまとめ直そう。
↓今から読むなら、増補版(水色のチャーミングな表紙!)のほうが良いかもしれない。





5 高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』(2007、 講談社学術文庫)

 高山宏の著作で唯一文庫化されているこれは、まさに縦横無尽、英文学講義と言いながらも、表象文化論はもちろん、美学や視覚文化論(メディア論)まで、さまざまな議論が俎上に上がる。著者は凄腕の料理人で、まだ誰も見たことがないような角度でそれらを切り、断面をしかと見せてくれる。
 
 ニュートンの「光学」が詩の語彙を豊かにした、という一見証明の難しい事実から読者に知の愉楽を教え込んだと思えば、百科事典、テーブル、怪物たちとさまざまに移ろっていく。さすがは驚異を司るマニエリスト!

 見ること=知ることの行為としての意味が、文学テクスト、絵画、文化をどのように動かしてきたかを整理しているすごい本だ。4月28日に読了。




6 蓮實重彦「「結婚詐欺」からケイリー・グラントへ」(2003-7、『早稲田文学』)

 固有名詞の扱い方についての議論だった。大江「憂い顔の童子」「取り替え子」、村上春樹「海辺のカフカ」などが俎上に上がっている。平野啓一郎の『葬送』の馬車の扱いに関しての議論において、「虚構の本当らしさ」を重んじるあまり、教科書的になりすぎているという指摘は面白かった。フローベールと比べるのはなんだか少し酷な気もするけれど。
 そういうのって目くじらを立てる読者を撥ねつけるためなのだろうか、単に作者が厳格に意識を研いでいるのだろうか。





7 その他進行中の読書

 ル・クレジオ『物質的恍惚』、前田愛『文学テクスト入門』、『中島敦全集』、大江健三郎『われらの時代』、『荘子 内編』、ベルクソン『笑い』ほか


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