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書評

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読書記録、しっかりした書評からメモ程度まで形式は統一していません。ネタバレ多。
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#書評

分断の時代に聳え立つ―九段理江『東京都同情塔』

概要 第170回芥川賞受賞作。ザハ・ハディドの圧倒的に美しい、東京五輪の競技場が、アンビルド(un-build)ではなく、出来上がってしまったifの世界にこの物語は始まる。そこでは新宿御苑に新たな塔が立つ。その塔は犯罪者を「同情されるべき人々」として厚遇する、斬新な価値観に基づく建築だった。「バベルの塔の再現」という字句から始まる『東京都同情塔』は、その塔を見据え、実際に設計・建築する女性建築家を主な語り手としている。バベルという涜神によって言語がばらばらになる、その現象と

コロナ禍という日常を生きた人々へ―カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳)

コロナ禍のとき、ものすごく売れた本で、その時は反骨心で読まなかったが、正直後悔している。ここに書かれている疫病禍の記述は、もはや何かの象徴や寓意、また虚構といった薄さではなく、実感の厚みをもって感じられるのである。弛緩した、けれども恐怖によって緊密になった時間への感覚、愛への途絶など、ウンウンと頷ける描写が間断なく綴られるのだ。滔滔と、かつ読ませる文章が続いてゆく。箴言も訓戒もさまざま、異なる立場から主張が入り乱れ、疫病下の混沌たる、陰惨たる有様が浮かび上がるさまは見事。そこ

読むことの深淵と、その周縁―鈴木哲也『学術書を読む』

 学ぶという行為、それは他者からの知を享け入れ、分かりにくいもの(=自己)と対峙しながら、同様に分かりにくい世界へ向かって知を照射する試みである。そのさなかでわれわれは専門という言葉で飾られた偏った狭い門をくぐり、ぐんぐんと深い穴へ這入ってしまう。  鈴木哲也『学術書を読む』においては、そもそも本を読むと言う行為について「考える」ことにはじまり、専門外の学びを得る本を「選ぶ」技術を、著者の読書から具体的に考察し、さいごに「読む」ことの意味とテクニカルな側面を示唆している。

触れないこと、触れそこなうこと―絲山秋子『海の仙人』

 宝くじに当選したら、どうしようか? 他言してはいけない、とか、会社を辞めてはいけない、というのはよく言われる。この物語の主人公は、一つ目をほぼ守り、二つ目を大胆に破る。そのせいかはわからないが、物語のさなか、恋人に死なれたり、落雷に撃たれたり、手ひどく痛めつけられる。  デパートで働く河野は宝くじで1等が当たり、会社を辞め、海の美しい敦賀で悠々自適の暮らしを謳歌している。そこにあたかも旧友のごとく自然さで「ファンタジー」と名乗る役に立たない神様が現れ、彼に恋する2人の女性

闘争としての恋愛の極北―石原慎太郎「太陽の季節」

 新潮文庫の裏表紙の紹介文はこのように評している。1955年、石原慎太郎が一橋大学在学中に執筆した本作は、新世代の若者のメルクマールとして迎えられた。奔放な戦後青年像は当時の選評も二分し、「攻撃的」「快楽主義的」な表層的な印象から「太陽族」という流行語も生まれた。 という有名な書き出しから物語は始まる。結論から一言で言えばここで描かれるのは、恋愛に形を借りたファム・ファタール(宿敵)=英子との闘争だ。恋はそのまま拳闘に重ねられ、それは効果的に作中に持ち込まれる。  主人公

奔放で快哉な語り―太宰治「盲人独笑」

 太宰治『お伽草子』の作品はいずれも、古典をはじめ、当時から見て現代以前に題材を借りている。巻頭の「盲人独笑」は、江戸後期から明治を生きた、葛原匂当という箏曲家の日記である「葛原匂当日記」の引用(の形に見せかけた語り手の改作)である。  この「日記」の特異な点は、全編がほとんど平仮名で記されているということだ。その表記の形式が大きく絡むもう一つの特異な点は、この日記の書き手=匂当が、盲人であるということだ。語り手によれば、匂当は多才な人物で、音律に対する天賦の才のみならず、

[感想]三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』

 言語哲学の研究者の視点から、会話の機能としてのコミュニケーションと、潜在的意図としてのマニピュレーションを、さまざまな事例から解きほぐす。過不足ない手際で、非常にわかりやすく議論が展開する。会話の中に潜む機微として、「伝わらないこと」「わかり切ったこと」をわざわざ伝えることなどが語られる。  とっても読み易い本で、マンガのカットが引用されていたりする。そしてなにより、説得力がある。約束事の形成としてのコミュニケーションと、その裏側で意図されるマニピュレーションが、いかに会話

[書評]市川沙央『ハンチバック』

 経験を言葉にすること、それはその細部において他人には計り知れないほどの重みを持つ。多かれ少なかれ、それは文章を理解しながら進んでいかなければならない「読む」ことの行為者を圧迫する。ときに「訴求力」と呼ばれるその圧力に、この作品に関しては、作者も拉がれているのだ。    難病を抱える40代女性の視点をとって描かれる今作は、現実世界と、ネットにおける描写が混在する。現実において描かれる細部から、彼女が背負うものが否応なく立ちあがる。腹のタオルケット、人工呼吸器、痰の吸引カテー

[書評]J.D.サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」

 グラース家の長兄、麒麟児のシーモアが自殺するナイン・ストーリーズの冒頭から、時間軸的には前後するが、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』というその名も美しき作品は、結婚式をボイコットする長兄を、次男のバディが切々と語りつくす作品だ。時にバスルームで開くシーモアの日記からは、その溢れんばかりの知性の香気が感じ取れもする。次男のバディはあっさりとシーモアを視ようとして、実はかなり熱心に、追慕が頭をもたげるところが、とても愛らしく、そのような筆致で描けるサリンジャーという書き手を素晴

[書評]「本物の読書家」乗代雄介

 不思議な手触りだ。小説と、文学批評が交響している。文学批評はまったく邪魔になることなく、むしろ小説の読みを駆動するのだ。川端康成の手紙を持っているという大叔父に付き添う羽目になった読書家の「わたし」が在来線で居合わせた謎の男。車内での読書話はやがて文学史を揺るがす大きな謎へと肉薄してゆく…  本書は、前に述べた通り、読書家と作家、つまり書き手と読み手という機構を題材とした文学論の色彩をも帯びている。太宰治、川端康成はもちろん、柄谷行人からナボコフ、サリンジャーまで、引用を

[書評]ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

 書いている人の存在が感じられる文章が好きだ。私たちを読み手として認め、ときに立ちどまり懊悩しながら書く人のことを想うと、こちらも読者として誠実に付き合わなければならないことを思い出せる。端的に言えば、これはそういう小説だ。  ナチス・ドイツで一番危険な男、《金髪の野獣》ハイドリヒを襲撃する〈類人猿作戦〉へと集約するために、歴史的背景を丹念に追い、関係する一人一人の動きを追い、物語を作る。襲撃されるに至るハイドリヒの出世の生涯と性向、襲撃するパラシュート部隊のガブチークとク

[読録]有島武郎「小さき者へ」

子を想う父の肖像が浮かび上がる、「小さき者へ」という作品は、妻を失った夫として、子を持つ父としての覚悟が綴られる。それは子が成人してから読む想定で描かれた夜想である。  物心つかない子へ語るということを考える。時間が沸き立ち、考えるでなく一時的経験の連続の中で生きる子という存在に対しては、親はたじろぎながら、傷つきながら愛することしか能わずという感じである。というか、それ故にこうした迂路を通りながら父の愛は伝達されなければならなかったのだ。 他人と暮らす、ということの意味

[読録]『しんせかい』山下澄人

小説とは、作家による現実の経験の再現である、という当たり前に見える事実。けれどもこれこそが、私たちが小説を読む理由の本質を穿っている。私たちは他人の人生、経験へと入り込み、肉体と意識を借りる。  『しんせかい』。ここで私たちが目撃することになるのは、忘れながら、考えながら言葉を紡ぎ出す語り手のリズムだ。喋っているひとの声の間、思考の感覚が改行に現れ、飛び跳ねるように、戯曲のように言葉が紡がれていく。そして、それはわたしたちに、私たちが考えるリズムと似ている、というリアルさを意

[読録]退廃的、黒。 ― Edger Allen Poe「黒猫」

 認めよう。確かに、黒猫の眼、その神秘的な妖しい光りのなかには、なにか人を恐怖させるようなものがある。しかし、それだけで人々は黒猫を「不吉」のシンボルとして扱ったりするだろうか?    そのような問いに対する一つの答えは、エドガー・アラン・ポーの「黒猫」のなかにある。  この作品は、ポーの作品群の中で代表的な位置づけを為している作品で、なにより短編の中で優れた輝きを放っている。短編小説というのは、普通の小説や、だらだらと書くような長編のエッセイとは違って、緻密な構成力と